楊朴 的个人资料感悟人生照片日志列表 工具 帮助

Yang Pu 楊朴

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来るもの、拒まず。去るもの、追わず。

感悟人生

放下是洒脱提起是勇猛
第 1 张,共 1 张
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2009/11/26

美国研究②

「オバマ研究序論」
――何故、アメリカはオバマを選んだのか――
2009/11/23

為替研究①

                             「金融商品研究初歩」
                        ――外国為替証拠金取引を中心に――
はじめに
資産を殖やす有効な手段として外貨投資。中でも個人投資家の注目を集めたのが、外国為替証拠金取引、いわゆる「FX」である。FXをする醍醐味は、なんと言っても為替マーケットのダイナミズムを肌で感じることである。
新しい技術が開発されたり、何処かでテロが起きたり、大きな災害が起きたりなどで、ニュースで大きく取り上げることが、ダイレクトに瞬間的に為替マーケットに反映される。世界中の人々が一気に集まる時、為替のマーケットは大きく動く。そんなグローバル視点でニュースを見ていると、これまで見逃してきたいろいろな出来事が、実は大きな連動性を持っていることを感じる。
FXを始めると、知らず知らずのうちに、「経済に詳しくなっていく自分」を感じているものである。まして通貨は誰にとっても身近なもの。その通貨を動かしている「為替のマーケット」には、ただお金を殖やすだけではなく、知識とか教養とか経済観とか、難しいけれど知っていると、何よりも自分の「武器」になる。
そういう魅力がいっぱい詰まっている。その結果、自分のお金も増えている!知識も広がる。視野も広がる。
一言で言うと、FXとはつまるところ、自分自身との闘いである。
つまり、金融商品は21世紀の人間生活にとっては、大きな役割を果たしている。この短い論文で、外国為替証拠金取引と、その歴史、現状、方法、及び将来性と問題点など、を簡潔に分析しておきたい。
第1章、外国為替証拠金取引とは
外国為替証拠金取引とは、証拠金(保証金)を業者に預託し、主に差金決済による通貨の売買を行うと言う。「FX」、「通貨証拠金取引」、「外国為替保証金取引」とも言う。FXはForeign eXchange=外国為替の略に由来している。
日本では、FXの歴史が短い。1998年に外国為替法と外国貿易法が改正されて、ごく少数の証券会社が取り扱いを始める。インターネットの普及も手伝って市場が急速に拡大した。
商品先物会社と証券会社のほか、FX取引を専業で取り扱う外国為替取引業者も現れる。取引の仕方によっては非常に高いリスクを負うために、実際の取引にあたっては外国為替相場に関する十分な知識や経験を要する。
外国為替証拠金取引には、外貨預金、外貨建てMMFなど、ほかの外貨建て金融商品と比較して、以下の特徴がある。
多くの外貨建て商品では、通常が外貨を買ってから後に売るという取引になるが、外国為替証拠金取引では、逆に外貨を売ってから一定期間後に買い戻すことも可能である。
レバレッジを利用することによって、証拠金の何倍もの外貨を取引することができる。但し、証拠金以上の損失を受けることもある。
株式先物取引とは異なり差金決済のため同一通貨を何回でも取引できる。
為替レートの同一の時の、売り相場と買い相場が、ほかの金融商品と比べて小さい。金利の高いポジション(ロング)の場合の、金利差による受け取りスワップポイントも、ほかの金融商品より有利な場合が多い。
但し、受け取りスワップポイントによる利益を享受できるのは、買いポジションにある通貨が上昇している時だけで、下降時には受け取りスワップポイント以上の多大な損失を受ける。
一方の貨幣価値が上がると他方の貨幣価値が下がることから、取引の儲けは必ず他方の損失から成り立っており、株式のように為替市場全体の富が増加することは無い、と考えるのが一般的である。しかし、別の考え方も成り立つ。
なぜなら、市場全体が投機筋による取引では決してなく、実需筋の取引も無視できないからである。
すなわち、外国為替を行うもの全員が投機目的であれば、誰か得をした分、別の誰かが損をすることになる。しかし、実際には実需筋による取引も多い。
例えば、アメリカに旅行に行く日本人が、現地での消費に備えて日本において日本円でドルを買い、アメリカでそのドルを消費した場合、これを損失、ないし利得と言えるのかは、疑問である。
すなわちゼロサム論は、「全取引者が、やがて元の自国通貨に戻そうとする」ことが前提となっているのである。
もちろん、FXという投機目的の市場が、実需筋の市場とは完全に切り離されていれば、ゼロサムなのであるが、FXの市場でも、結局は実需筋を含む外国為替市場の価格にほぼ従って取引されているので、そのようなことはない。
実需者による片道取引をも、損失ないしは利得と観念するのであれば、ゼロサムだと言えるのであるが、片道取引においては損得を判断すべき基準レートがない。
なお、実際は実需が全体の取引に占める割合は1、2割に過ぎないと言われている。投機筋全体として、プラスとなることもマイナスとなることもある。
取扱い事業者および外務員は登録制(改正金融先物取引法:2004年12月成立、2005年7月1日施行)であるが、FX事業者の破産や詐欺行為などを事前に予防・担保する法的・財務的規制が十分でない状態であり、委託証拠金が分別管理されていない事業者の場合、預け入れ金が返還されない可能性があるなど事業者リスクを十分検討のうえ配慮する必要がある。
証券会社の取り扱うFXについても、通常は分別保管の対象外や日本投資者保護基金の補償対象外となっているので確認する必要がある。
なお、委託証拠金が分別管理されているという前提での話であるが、FXの場合、事業者が破綻しても顧客の資産は保護されるため、破綻時に保護対象でない外貨預金より、破綻リスクに対しては強いという見方もある。
第2章、レバレッジとは
外国為替取引では、レバレッジを利用することにより、証拠金以上の外貨を取引することができる。
レバレッジは、取引業者との契約によって定まる最大レバレッジと、預けている証拠金と実際の取引量の比率である実行レバレッジがあるのだが、両者はしばしば混同される。
実行レバレッジの倍率を高くするほど為替相場の変動によるリスクは高まる。
最大レバレッジは、実行レバレッジが同じであれば、高いほど後述するロスカット(LC)が起きにくくなって、取引余力が大きくなる。
取引業者によっては、500倍もの高いレバレッジも設定可能であるが、100倍以上の実行レバレッジではロスカット(LC)されやすく、リスクが高いとされる。
逆に証拠金と同額の外貨を取引する(レバレッジ1倍)という外貨預金に近い比較的低リスクの取引もできる。
仮に実行レバレッジが100倍で取引した場合、1%の変動が(1ドル=100円)100%の変動になる。利益なら証拠金が2倍になるが、損失なら証拠金金額を失う。
高い実行レバレッジであるほど、リターンが高まる分リスクが高まることを理解しなければならない。注文後にすぐにストップロスを必ず使い、被害を最小限に収めることが大切である。
実際には商品先物の証拠金取引と同様、損失が一定額を超えると、ロスカットルールによって、強制的に反対売買がなされる。またそれよりも損失の小さい段階で追加証拠金の差し入れを請求される(マージンコール)場合もある。
ロスカット判断は取引時間中にほぼリアタイムで行われているが、システム状態によっては、必ずしもリアタイムとならない場合もあるほか、週明けに大きな変動があることもあるため、特に高い実行レバレッジの損切りではロスカットルール以上の損失が発生するケースも多い。
外国為替を原資産とする場合、そもそも通貨の両替から派生しているが故に、上場の有価証券とは本来的にその性質が異なる。
ここにおいて、レバレッジの概念は想定元本のみならず、評価損益をどの程度の頻度で管理すべきか、という極めて高度な信用リスク管理と表裏一体であるが故に、この部分を行政・立法という公権利、若しくは業界団体による自主ルールでの制定を行おうとする試みがあるが、一方で、リスク管理手法は各金融機関によって大きく異なるというのが実状である。
将来、最大レバレッジ25倍の規制が金融庁より導入される予定であるが、金融庁が投資家保護を目的として掲げているにもかかわらず、投資家の大半は、レバレッジ規制導入に批判的である。
第3章、ロング・ショートとは
外国取引証拠金では、「買い」の方の通貨をロング、売りの方の通貨をショートと呼ぶ。常に何らかの通貨を売り、何らかの通貨を買う、という取引をする。
これは、日本円でバナナを買う際に、バナナを買って日本円を売っているわけでもあるのと同様である。外国取引証拠金では、バナナの代わりに通貨を用いり、日本円を売って、ドルを買う、ドルを買ってユーロを売る、というような取引をする。上記の例では順に、ドルロング円ショート(ドル円ロング)、ユーロショートドルロング(またはユーロドルショート)という言い方になる。
通貨のペアは、USD/JPY、EUR/JPY、EUR/USDなどと表記が決まっているので、「ドル円ロング」と言えば、円はショートされている。同様に「ユーロドルショート」と言えば、ドルはロングされている。但し同じ取引をドル円ショート、ドルユーロロングなどという言い方は慣例としてしない。
第4章、外国為替証拠金取引の例とは
1ドル=120円、レバレッジ20倍で取引する場合、60万円(5000ドル相当の円)を証拠金として預託すると、5000ドル×20=10万ドルの取引が可能となる。つまり、証拠金は取引額の5%になる。1ドル=120円の時に取引開始して、10万ドルを買い、その後、円高となって1ドル=115円になったとする。この時の収支は、
1ドルあたり、115円-120円=-5円であるから、10万ドルでは50万円の損失である。また、証拠金は1ドル=120円の時に、5000ドルであるから、60万円である。
初めの証拠金の60万円に対して50万円の損失を差し引くと、残るのは10万円だけであり、始めの1/6となる。
上記と逆に、円安となって1円=125円になった場合は、50万円の利益となる。つまり、初めの証拠金の60万円が110万円となり、およそ2倍となる。
近年、成長著しい中国の元を取り扱う業者はごく少なく、扱っていてもスワッポ金利がつかない場合や、中にはスワッポ金利が売り買い共にマイナスというケースもある。これは、中国元の元市場が先進国の通貨に比べて自由化されておらず、通常の方法で取引できないためである。
第5章、注文の処理の仕方とは
FX取引会社が注文を処理する方法には複数ある。FX業者によって異なる。インターネットをいじることができる人ならば、誰でもFXをやれる時代になる。
相対取引、直接売り買いする人同士を結びつけるのではなく、外国為替を売り買いする人は、FX会社と売り買いする(相対引取り、OTC-Over The Counter)。
大半のFX事業者はその注文を受けてカバー銀行などに発注する。流動性をFX事業者が保証するが、その代わり、大きなロット数を受け付けない場合が多い。スプレッドが固定のFX事業者は主にこのタイプ。
ECN(電子証券取引ネットワーク)Electronic Communications Network。電子取引システムによる私設の取引所。売り買いを直接結びつける。気配値に対するロット数が公開されることが多い。
マーケットメーカー方式よりも、大きなロット数を受け付けることが多いが、逆に最小取引金額が大きめな場合もある。
自分の取引所ではさばききれない場合、流動性の確保のため、ギアアップ制度により、他所の銀行や取引所に注文を流すこともある。海外では私設ECNマーケットが複数存在するが、日本では公設(クリック365)ECNのみ。
NDD-No Dealing Desk。注文を受けたら、他の流動性を提供する会社に注文を流す。他のカバー銀行などから、もっとも条件のよい値段を客に提示する。
第6章、リスクとは
第7章、課税方法とは
第8章、金融商品に関する法制限とは
第9章、関連項目
外国為替、悪徳商法、外国為替市場、外国為替及び外国貿易法、金融商品販売法、金融商品取引法、金利平価説、売買力平価説、為銀主義など
終わりに、将来性と問題点
参考文献と注釈
2009/11/20

美国研究①

「アメリカ研究」①

はじめに

アメリカと言えば、マクドナルド、ジーンズ、野球が、目の前に浮かぶ。

世界の歴史を眺めると、クリストファー・コロンブス(Christopher Columbus14511506)がアメリカ大陸(1492年)を発見するのをきっかけに、1607年に始まる北米イギリス植民地は、あっという間に十三の植民地となった。

177674日に、ジェファソンの起草になる「独立宣言」が発布され、アメリカは独立することとなった。1787年に連邦憲法が批准され、17894月に連邦政府が正式に発足することとなった

アメリカの歴史は、原住民であるインディアンの歴史を除けば、せいぜい400年くらいで、短い。アメリカ人とは、『アメリカ農夫の手紙』(1782)によれば、ヨーロッパ人か、ヨーロッパ人の子孫であり、ヨーロッパ人の「混血」であると書かれている。このようにアメリカの歴史が短いということは、近代社会と共に始まったと言えよう。

アメリカ社会は、ヨーロッパ社会、中国社会と比較して厳格な身分制度を持たず、それだけ個人の能力を自由に発揮することができる。独立奮闘、機会均等、自由競争というアメリカ人の理想は、相対的にはまた現実でも有り得たのである。

空間から見れば、アメリカは、広い。ロシア、カナダ、中国に次いで第四位となるが、非常に良い地形と気候と資源の多様性に恵まれている。

アメリカ本土には、大西洋岸寄りにアパラチア山脈、太平洋岸寄りにロッキー山脈とカスケード、シェラネバダ両山脈が聳える。これら山岳地帯の間には、世界有数の、幅2000キロの大平原が広がる。その中心にミシシッピ川とその支流がメキシコ湾に向かって流れ、河口には巨大なデルタが存在する。この南北に走る山や川が、北アメリカ大陸の基軸をなす。

大西洋、太平洋、そして北極洋に包まれているという地理的な条件は、アメリカ社会の発展に大きな影響を与えてきた。1620年に、メイフラワー号に乗って、ピューリタンたちが大西洋を渡ってきた時、この天然たる隔たりを克服するには実に二ヶ月余りかかった。如何にもヨーロッパから遠い地であったのである。

アメリカは、こうした大西洋と太平洋に守られて、独立以来、激しい勢いで、広大なアメリカ大陸に膨張していった。アメリカの発展にとって、この広大な国土は、農業用の耕牧地としても工業の市場としても、重要な意味を持っているし、豊富な天然資源を内蔵しているのである。

また、アメリカが多様な人種から成り立っている。白人、黒人、中国系、日本系、ヒスバニック、インディアンなどに彩られている。事実、人種差別の問題は深刻である。

アメリカ人とは、自然にアメリカ人であるというよりは、人為的にアメリカ人になったもの、またその子孫のことであると言えよう。アメリカは、ヨーロッパのような身分制の壁は少ないが、そうした人種間の、新旧移民間の微妙な壁が存在していると思われる。

独立戦争、南北戦争、奴隷解放、モンロー主義、棍棒外交、ドル外交、宣教師外交、第一世界大戦、孤立主義、大恐慌、ニューディール、第二次世界大戦、冷戦時代、朝鮮戦争、ベトナム戦争、公民権運動、ソ連崩壊、湾岸戦争、911テロ、イラク侵攻、アフガニスタン戦争、一国主義、及びオバマ登場、アメリカは、建国から今までの歩みを振り返ってみると、その目まぐるしい進化と素晴らしい変貌について、脱帽するしか言いようがない。

わたしは、アメリカの広大な自然を思い浮かべながら、中国がアメリカに学ぶべき事とは何か、アメリカの歴史文脈、建国理念、外交政策、主な出来事、つまり、アメリカの多文化社会の夢と現実を簡潔にまとめ、その成功の経験と失敗の教訓を鏡に、分析しておきたい。

どちらかというと、一国の文化の特色は、ほかの国の文化と比較して、始めて分かるし、論じられるであろう。まさに比較文化的な見方ができるという点で、かえってアメリカ文化の特色を見抜くことができると言えるかもしれない。

はじめに、(1ページ)

目次、(2ページ)

序章、(35ページ)

結論から言うと、中国の共産制資本主義は、日本の天皇制民主主義と同じように、ねじれ政治制度である。

1章、(611ページ)

アメリカの400年の歩み

2章、(1217ページ)

連邦制と三権分離の真髄

3章、(1823ページ)

見える手と見えない手の業

4章、(2429ページ)

宗教と信仰

5章、(3035ページ)

孤立主義と膨張主義の謎

終章、((3640ページ)

中国、アメリカ、日本:三者の関係の未来像

参考資料、(4143ページ)

注釈、(4445ページ)

引用・参考文献一覧、(46ページ)

終わりに、(4748ページ)

補論、(4950ページ)ペロリ

2009/11/12

日本研究①

                                 「日本キリスト教史研究序論」
                            ――1859年から2009年までの歩みと苦闘を中心に――
はじめに
およそ五百年前、キリスト教は日本に入った。大体、六期に分けることができる。
① 1549~1587 異神
② 1587~1859 邪宗門
③ 1859~1873 イエス教
④ 1873~1889 洋教
⑤ 1889~1945 基督教
⑥ 1945~2009 キリスト教
一期は、キリスト教が渡来し、異国から来た宗教とされ、バテレン追放令が出されるまで。
二期は、宣教師の追放、禁制、鎖国で邪教とされていた時期で、開国までの長期にわたる。
三期は、禁制は続き、伝道ができなかったが、やがて、禁制の高札が撤去されるまで。
四期は、伝道の黙認から西洋化の波の押し寄せた時代で「大日本帝国憲法」の発布まで。
五期は、「大日本帝国憲法」から1945年敗戦まで。
六期は、敗戦と「日本国憲法」により、信教の自由を得て以来、今日まで。 

或いは、キリシタン時代15491868年、明治期18681912年、大正期19121926年、昭和前期19261945年、現代19452009年という分類法も。

しかし、不思議に思うのは、宗教人口が少ない。キリスト教でさえミニ宗教である。なぜキリスト教が日本で大きくなることができないのか?
その点について、日本の社会や文化の歴史との、交渉、交錯、衝突のなかで、特に日本キリスト教の百五十年の紆余曲折の歴史に焦点を当てて、日本のキリスト教内部の教派、神学の問題などを眺めながら、その経緯と原因を簡潔に考察したい。
本論
日本にキリスト教が渡来したのは、フランシスコ・ザビエル(Francisco de Xavier、1506~1552)による1549年の出来事とされている。1587年、「伴天連追放令」の発令によって、江戸幕府は、ザビエルの布教以来、邪宗として、日本に広がったキリスト教(カトリック)、またその信徒を弾圧した。「二十六聖人」殉教事件を契機に、厳しい監視と摘発が続く。

禁教と鎖国の結果、キリシタンは、まもなく表面的には日本全国から根絶してしまった。ところが、その後も、キリシタン取締り諸制度は、そのまま存続され、禁制の高札も踏み絵も、幕末に至るまで三百年にわたり維持された。
幕末になると、かつてのスペイン、ポルトガルに代わって、イギリス、アメリカなどがアジア進出を開始した。これらの諸国のアジア進出とあわせ、結果的には中国や日本でのキリスト教プロテスタントの伝道が始まることになるが、福音主義運動とも信仰復興運動とも呼ばれるものである。
ドイツの敬虔主義に起源を求めることができる福音主義運動は、イギリスで18世紀の中頃から19世紀の初めにかけて盛んになった。福音主義運動とは、制度化し固定化したイギリス国教会の信仰に対し、キリストによる贖罪、信仰義認、聖書主義というような福音そのものを中心に掲げる運動であった。
1792年に、パブテスト伝道会(Baptist Missionary Society)が結成され、1795年に、ロンドン伝道会(London Missionary Society)が設立し、1818年に、メソジスト伝道会(Methodist Missionary Society)などが相次いで結成された。
一方、新大陸のアメリカでは、東部のニューイングランドを中心とした宗教と政治とが一体の、いわゆる建国神話時代が過ぎ去ろうとしていた。次々と流入する大量移民と、西部への人口移動によって、社会は大きな変動期を迎えていた。思想上も合理主義、啓蒙主義が次第に支配的になり、俗化を助長していた。
こうした社会状況に対し、ピューリタン的信仰を図る運動が起こるのは不思議でない。信仰復興はフロンティアへの伝道熱となって表れる。東洋などへの外国伝道熱も同じ信仰高揚の動きのなかから生じた。
1853年に、ペリー(Matthew C.Perry、1794~1858)の来航の結果、1856年に、アメリカ領事としてハリス(Townsend Harris、1804~1878)が下田に着任した。1858年に、日米修好通商条約が結ばれ、同条約の第八条において、アメリカ人の居留地における信教の自由と礼拝が認められた。同条約の発効する1859年から、公式に日本への宣教師の渡来が実現を見ることになる。
日本プロテスタント史の上で本土に着任した最初の宣教師とされるのは、アメリカ監督教会のリギンズ(John Liggins、1829~1912)であった。1859年に10月18日にアメリカ長老教会(Presbyterian Church in the United States)のヘボン(James C.Hepburm、1815~1911)11月1日に、アメリカ・オランダ改革派教会(Reformed Church in America)のブラウン(Samuel R.Brown、1810~1880)などが日本に到着した。日本のキリスト教は、長いトンネルを通り抜け、真冬の暁を迎え、ようやく歴史の幕を開けた。
1859年までに、以下に述べるように幾つかの歴史に残る出来事がある。
1、キリシタンの流行
15世紀になると、ポルトガル、スペインをはじめとする西洋諸国のいわゆる「西力東進」が開始した。ローマ・カトリックの反宗教改革運動の結果、1534年に、ザビエルらによって、イエズス会が結成された。キリストと教皇の命令に従い、布教の前衛として挺身を志す修道会であった。ザビエルとイエズス会の献身的な伝道を通じて、日本キリシタンの最盛期には、その信徒数は60万~70万人とも言われる。
2、最初の日本語訳聖書
「約翰福音之伝」及び「約翰上中下書」で、1837年にシンガポールで印刷された。
3、モリソン号事件
1837年夏、アメリカの商船モリソン号が来航、浦賀沖で撃退される事件が起こった。船主は広東にあるアメリカのオリファント商会だった。来航の目的は三つあった。
第一に、船主のオリファント商会が望む通商である。
第二に、伝道であり、S・W・ウイリアムズ(Samuel W.Williams)が同乗していた。
第三に、漂流民尾張の音吉ら三人と肥後の庄蔵ら四人の送還である。そのためにモリソン号は武装していなかった。
実は、1825年に、幕府は、異国船と見かけたならば委細かまわず打ち払えとの、「無二念打払令」を出していた。
1853年、ペリー来航によって、日本は三百年の鎖国の扉が開かれ、開国となった。1859年に初めてプロテスタントの宣教師が渡来し、日本の伝道事業が着手された。開国しても、禁教の高札のため、英語を教えたり、英学塾を開いたり、伝道の準備をしていた。
まもなく、徳川幕府が倒れ、明治政府が誕生した。1868年3月に五箇条の御誓文が発せられて、「文明開化」「富国強兵」のスローガンのもとに近代国家への第一歩を踏み出した。しかし、旧幕時代の禁教方針は変わらない。少しも禁教の手も緩めなかった。1873年2月に、キリスト教解禁の前後には、プロテスタント教会が設立された。
日本におけるプロテスタントの発祥の地は、中央では横浜、西は熊本、北は札幌で、それぞれ横浜バンド、熊本バンド、札幌バンドと呼ばれる。1871年の歳末から翌年1月初週にかけて、横浜では、宣教師や在留外国人たちは、祈祷会を開いて、熱心に日本宣教のため祈った。この祈祷会を、植村正久は回顧録において、以下のように述べている。
『諸藩の人士多く外人につき語学を修めたり、中にも数名の少年達は英学を修める余暇に時時キリスト教の講談に耳を傾けたり。此輩大いに感ずるところありて、明治五年正月バラ氏に乞うて、西洋人のなすがごとく、初週祈祷会を開けたり。会する者凡そ三十名、今まで祈祷の声発することなかりしに、甲祈り、乙これにつぎ、或いは泣き、或いは叫びて祈りするもの前後を争ふが如くにてありさ、面のあたり一大リバイバルを見たる心地せり』。
1872年3月10日に、押川方義、篠崎桂之助、安藤劉太郎、吉田信好ら九名がバラ(1832~1920)から洗礼を受け、聖餐式を守り、先に受洗した小川、仁村守三を加え、十一名で、バラが仮牧師、小川を長老にあげ、日本基督公会を設立した。これは日本最初のプロテスタント教会である。
明治のはじめ、キリスト教を受け入れた人たちは、キリスト教によって、新日本を建設するというナショリストであり、「神と国家のため」が彼らの合言葉であった。当時の日本は、先進資本主義国からの、軍事的、経済的独立を目指して、富国強兵策を第一とする国家主義であり、キリスト教界も、教会を設立し、伝道を続けるために、国家に対して、どのように対処していくかは大問題であった。
一方、明治政府は、憲法、議会など近代的装いを施しながら、天皇制を中心に、中央集権的支配体制を固め、日清、日露の勝利、産業革命の成立などによって、強力な国家体制に入っていた。
このため、キリスト教徒の行動と倫理は、国家倫理と、齟齬矛盾して、植村正久、内村鑑三のような、またキリスト教社会主義者たちは、この体制と戦わざるを得なかった。このような国家との緊張関係のなかで、教会を形成し、キリスト教学校を経営していくのである。教会の枠に入らない無教会主義、或いはキリスト教社会主義、YMCAの成立なども、この時期に入るのである。
4、日本基督公会
日本ではじめてのプロテスタント教会は、1872年「日本基督公会」という西洋の教派の伝統を破って、超教派の立場に立った教会であった。この公会が、東京、大阪、神戸、三田、京都、上田などに広がり、いずれも基督公会と称した。
5、アメリカ監督教会
アメリカ監督教会は、リギンズ、ウイリアムズを派遣した。東京と大阪を中心に伝道し、1878年に聖三一教会、1883年に立教教会が創立された。一方、イギリス教会伝道会は、エンソー(G.Ensor)を派遣した。彼は在日四年の間に、東京に聖十字、聖ステパノ教会を設立し、また横浜に聖アンデレ教会を設立した。以上三ミッションが別々に伝道していたが、1878年のランベス会議の決議に基づいて密接に提携し、経済的にも互いに助け合った。
6、日本基督教会
日本基督教会は、1859年に日本に最初に伝道を開始したアメリカ長老会と、アメリカ・オランダ改革派教会に、1874年に伝道を開始したスコットランド一致長老教会の三つのミッションに、日本基督公会、アメリカ婦人合同伝道会社などが、加わって、1877年10月に、合同を決議して、「日本基督一致教会」を組織した。此のうち三者ミッションは、いずれもカルベン主義に立ち、教会政治から言えば長老主義を取るもので、相互に近似性を持っていた。そして信仰告白、教会政治についても、主義、主張を異にするわけでもないので、日本に強力な伝道体制を作り、教会を多く設立していくためには、合同したほうがよいと見たものであろう。
7、日本組合基督教会
アメリカンボードと言われるアメリカ伝道会社を母胎とした教会である。「日本基督公会」の方針に従って、摂津第一、摂津第二、摂津第三など基督公会と称した。1876年にも京都第一公会、京都第二公会、京都第三公会、設立した。1878年に浪花基督公会を設立した。途中、分裂し、日本基督伝道会社を設立して、自由独立の精神、教会の自治、独立、自給を重んじる会衆主義を掲げ、伝道の向上を図った。
8、メソジスト教会
アメリカメソジスト教会は、高札が撤去された1873年に、日本に伝道を開始した。横浜、東京、長崎などを伝道の拠点とした。
9、バプテスト教会
1873年3月に、ブラウンは横浜第一バプテスト教会を設立し、また新訳聖書の和訳に努めた。1876年5月に東京第一バプテスト教会を設立した。
このほか、福音教会、美普教会、フレンド派教会などがある。
凡そ、どの教会でも、それぞれの信条を持ち、また教会政治、聖礼典、教職制からさらに、礼拝形態、生活態度を持っている。プロテスタントでは、発展過程において、分裂に分裂を重ねて、多くの教派が成立したが、その教派に属する者にとっては、止むを得ない必然性であった。自分の信ずる教派は絶対であった。日本でも、教派が分裂したのも当然のことであろう。
10、無教会主義
内村鑑三は、彼の処女作「基督信徒のなぐさめ」において、初めて「無教会」という言葉を用いた。
無教会主義のキリスト教徒は「イエス・キリストは無教会であった」「パウロは無教会であった」との理解を共有することが多い。また、無教会主義は「教会」よりも「キリストの十字架」を重んじると言われる。実際、内村鑑三はキリスト教が十字架教であると言っている。
無教会主義は、教会主義・教会精神からの脱却をめざす主義であって、キリスト教の福音信仰そのものを否定する主義ではない。無教会主義は、ある意味では教会に所属する所属しないと言ったことに、無頓着な主義であるとも言える。そのため、教会に所属しながら無教会主義であることも可能である。
キリスト教の歴史を通して教会にいろいろ付随して来た余計な権威・権力を克服しよう、という理念にたった運動が無教会主義であり、マルチン・ルターの宗教改革の二大原理(「聖書のみ」「万人祭司」)を極端に現実化したものである。
按手礼を受けた聖職者(牧師・正教師)を持たないので、無教会の集会または礼拝は儀礼(サクラメント)や説教を中心としたキリスト教の伝統的礼典から離れ、結果的に聖書の研究・講義が中心となった。
そのために、無教会では知識に重きをおく一方で、霊的な側面を軽く見る傾向がある、と見られることがよくある。
現在、約100万人のキリスト教信者の中に、無教会に属する人数はせいぜい2万人であろう。
『無教会が、私が言うように「神秘主義」であるのは、洗礼と聖餐のような礼典を認めないからである。しかし実際には、無教会にも儀式、しかも教会の儀式よりももっと厳格な「礼典」があるのではなかろうか。
無教会の「先生中心主義」は、聖書の真理は人格的である、と言いながら実は、極めて日本的な古い師弟関係からきているものではないだろうか。そこにおいては、教師は絶対的な権威を持って教えるものであり、子弟はその言うことに絶対的に服従していくものである。私が思うに、教会の「牧師中心主義」にしても、無教会の「先生中心主義」にしても、それはみな明治以来の武士階級と結びついたわが国独特のプロテスタント・キリスト教の特徴である』。(古屋安雄『日本のキリスト教』)
11、精神「維新」
ようやく1873年に、キリシタン禁制の高札撤去の太政官布告が出された。文明開化の風潮は、勿論英語の時代の到来も告げた。女子教育も段々盛んになり、一部の学校では、男女共学に踏み切った。キリスト教入信者の数は順調に増大した。
日本人のキリスト教理解の媒介となった思想として、陽明学の影響が大きかった。キリスト教への入信にあたり、陽明学との関係が少なからず認められる人物の名前には、吉岡弘毅(1847~1932)、本多庸一(1849~1912)、沢山保羅(1852~1887)、松村介石(1859~1939)、海老名弾正(1856~1937)らがある。
12、教育と宗教の衝突
1889年2月11日に「大日本帝国憲法」は発布された。その朝、文部大臣森有礼が、暗殺される事件が発生した。やがて、「教育勅語」(1890年10月30日)に対する内村鑑三が、いわゆる「不敬」事件が起こる。
内村は、「教育勅語」を宗教的対象として「礼拝」することには疑問を抱いていた。「教育勅語礼拝」は、神以外のこの世のものを絶対視することになり、宗教的良心に反する行為と見たからである。
国家主義教育を担う文部省にとり、キリスト教徒やキリスト教学校によって示される反国家主義的傾向は当然好ましいものでなかった。一時、教育と宗教との衝突論が溢れる。
13、靖国神社と戦争責任
近代日本における政府のキリスト教政策を見ると、キリスト教に対しては次の対応をしてきたと言えよう。
禁制 1868年、禁制の高札撤去まで
黙認 1873年、禁制の高札撤去から
公許 1889年、「大日本帝国憲法」発布から
公認 1912年、三教会同から
徳川幕府の政策を引き継ぎ、明治維新の結果から生まれた新政府は、神道国教化もあって禁制を公示した。しかしキリシタン信徒に対する弾圧を諸外国から非難され、信仰を黙認する方針に転換した。
大正時代に入ると、「大正デモクラシー」と呼ばれるように、民本主義思想と普通選挙運動、婦人参政権運動が起こった。それらの思想や運動のいずれにも、キリスト教信徒の姿が目立つ。
日本のキリスト教信徒のみならず近隣諸国の人々の良心をもっとも苦しませたものは、天皇制国家体制と靖国神社参拝問題であった。明治維新においては、祭政一致、神道国教化政策が強引に推進された。
それが廃仏毀釈にもなったため仏教側の反発を買い、キリスト教側からも信教の自由を求める声が上がった。1875年の大教院の解散、1877年の教部省の廃止、内務省に社寺局を設置することにより、急進的な神道国教化政策は、ひとまず頓挫した。
代わって神社を「国家の宗祀」としての、宗教ではなく、祭祀のみの存在とする施策がとられた。1899年の条約改正を機会として、政府は信教自由の実を示すため、同年「神仏道以外の宗教」(キリスト教など)にも、「宗教の宣布」を正式に認めた。あわせて翌年、従来の社寺局を神社局と宗教局に分け、政教分離を見せようとした。
政府は、神社を祭祀のみの存在とすることで宗教の仲間から外し、国家により特別扱いをしても、宗教でないから信教の自由に触れないと考えたのである。ここに「神社は宗教であるか非宗教であるか」の議論が生じた。神社非宗教論は、宗教の定義によるとしても、もともと宗教であるから無理があるようだ。人は神社に参拝に行った時、現実には祈願をするので、宗教生活との相違はない。たとえ祭祀のみとしても祭祀自体が宗教でないとは言い切れない。
「満州事変」を契機に戦争への準備が本格化した。それは近代日本の思想、宗教の重要な分岐点と言えよう。これを境に以前の平和主義者や自由主義者たちまでが、一転して思想の変化または屈服、沈黙に入っているのである。この時から日本の歴史は軍部による十五年戦争(1931~1945)に突入した。
台頭する軍部はすでに殺気に満ちている。「ゴー・ストップ事件」によって、大阪の教会に対して、大阪憲兵隊特高課長名で13か条からなる質問書が出された。
一、 キリスト教の神とは
二、 わが国八百万神々に対する見解
三、 わが天皇とキリスト教の関係
四、 外国皇帝(例えば英国)等と神との関係
五、 勅語と聖書の関係
六、 教育勅語による教育方針とキリスト教主義による教育との差異
七、 祖先崇拝に対する観念(神社参拝に対する念慮)
八、 皇祖皇宗の神霊に対する観念
九、 信仰絶対の境地とは
十、 信仰の自由に対する観念
十一、基督教は日本神道や仏教を偶像崇拝の迷信なりとする理由
十二、基督教と日本精神との関係
十三、ほか参考事項
これらの質問は、「治安維持法」などの容疑で取り調べを受けるキリスト教信徒にきまって向けられた質問である。1937年に日中戦争が勃発し、1938年に「国家総動員法」が設定され、1939年に「宗教団体法」が、可決された。戦争に向かう準備が整った。
敗戦後、日本は七年の占領時代を強いられた。天皇は戦争に対し、倫理上でさえ一切責任を負わずという形を取ったが止むを得ずに、「人間宣言」となったのである。 
政教分離の事情について、議論する。アメリカを例に取ると、1791年、連邦会議は最初の憲法修正を行った。憲法修正第1条から第10条である。政教分離が憲法に明記されたのは、人類史上、これが最初である。しかし、日本における、政教分離についての一般的な理解は、宗教と政治の分離(separation of religion and politics)であり、アメリカにおける政教分離についての一般的な理解は、宗教と政治の分離ではなく、政府・国家と特定の宗教組織の分離(separation of church and state)である。
この観点から見れば、靖国神社という特定の宗教組織を、政府の長である首相が「公言して」参拝することは、明らかに政教分離の原則に抵触する。 
自民党時代に首相参拝をめぐって毎年問題となっていた靖国神社の行方は、アメリカの「アーリントン国立墓地」を参考にすれば良いと思われる。「アーリントン国立墓地」をはじめとするアメリカの国立墓地の目的は、戦死者を祀るという政治的意図を持ったものであるが、個人の信仰は、無宗教をも含めて尊重されている。
これと比較すると、日本における国立墓地の議論は、政治主導であり、人間にとっての宗教の持つ意味を尊重するものにはなってはいない。
終わりに
振り返ってみると日本に初めてキリスト教が伝えられたのは、1549年、カトリック教会、イエズス会のフランシスコ・ザビエルによってであった。50年間に、その信徒数は60万~70万人とも言われる。しかし、やがて国の統一が進むと禁教令が出され、鎖国の時代に入り、多くの信者が殉教の死をとげた。
次にキリスト教が伝えられたのは、1859年の開国以後、外国の宣教師たちがやって来るようになってからである。19世紀中に、カトリック教会、プロテスタント諸教派、正教会など、伝統的なキリスト教会のほとんどが、日本に伝道して教会を建てた。
しかし、1890年以後、日本は天皇を神聖な元首とし、富国強兵を目指し、思想、教育をも統一管理する方向を辿った。そして、第二次世界大戦時においては、教会も戦争協力を強いられたのである。
1945年、日本の敗戦によって、信仰の自由の時代が来た。北米やヨーロッパから、多くの宣教師たちがもやって来た。日本のキリスト教会は、福音の本質を見つめなおし、国家と教会の関係を悔い改めと共に考え直して再出発したのである。現在でも伝統的な宗教と習俗が家庭生活や公の行事にまで入り込んでいる日本での伝道は困難で、クリスチャンの数はせいぜい約1%にしかない。
キリスト教は、日本にとり「異神」、「邪宗門」、「イエス教」、「洋教」、「基督教」、「キリスト教」であった。それは、時期によりニュアンスの相違はあるが、日本に大変異質なお騒がせ宗教であった」反応である。
ある宗教統計によれば、アメリカでは、プロテスタント、カトリック、ユダヤ教、ギリシャ教などの、聖書を聖典とする「ユダヤ・キリスト教的伝統」(Judeo-Christian tradition)の流れを引く宗教に所属する人々は、全人口の90%近くにのぼっている。日本のキリスト教の現状は、異常な低さと言わざるを得ないのである。どちらかと言うと、日本のキリスト教会は、迫害排除、教派林立、崩壊分離の洗礼を受け、死ぬに死ねずという窮境に立たされている。もっとも日本は1889年までに、薩長藩閥政治の下にあったので、キリスト教の伝道事業を三百年以上ほど締め出された。
なぜかというと、天皇制は、封建主義であり、明治憲法にせよ、平和憲法にせよ、せいぜい民主主義の見せかけのものにすぎない。元々、天皇制とキリスト教は、油と水と思われるし、伴天連追放令、訓令十二号から、天皇のいわゆる人間宣言まで、実質には、一貫して宗教の排他性を持っていると言えよう。
敗戦後、新憲法ができ、信教の自由を認めることになっても、「天皇制民主主義」という歪んだ国家体制の下で、日本のキリスト教会の未来は、明るくなるはずは、まず無いであろう。(約10000字数)
参考文献
(1) 鈴木範久『日本キリスト教史物語』
(2) 片子沢千代松『日本のプロテスタント』
(3) 隅谷三喜男『近代日本の形成とキリスト教』
(4) 古屋安雄『日本のキリスト教』
(5) 古屋安雄『キリスト教と日本人』
(6) 田中浩『近代日本と自由主義』
(7) 鵜沼裕子『資料による日本キリスト教史』
(8) 内村鑑三『余は如何にして基督信徒となりし乎』
(9)J・C・ブラウァー『アメリカ建国の精神:宗教と文化風土』
(10)有賀夏紀・油井大三郎『アメリカの歴史』
2009/10/5

十月五日

父亲周年忌日。