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2009/11/23 為替研究① 「金融商品研究初歩」
――外国為替証拠金取引を中心に―― はじめに、 資産を殖やす有効な手段として外貨投資。中でも個人投資家の注目を集めたのが、外国為替証拠金取引、いわゆる「FX」である。FXをする醍醐味は、なんと言っても為替マーケットのダイナミズムを肌で感じることである。 新しい技術が開発されたり、何処かでテロが起きたり、大きな災害が起きたりなどで、ニュースで大きく取り上げることが、ダイレクトに瞬間的に為替マーケットに反映される。世界中の人々が一気に集まる時、為替のマーケットは大きく動く。そんなグローバル視点でニュースを見ていると、これまで見逃してきたいろいろな出来事が、実は大きな連動性を持っていることを感じる。 FXを始めると、知らず知らずのうちに、「経済に詳しくなっていく自分」を感じているものである。まして通貨は誰にとっても身近なもの。その通貨を動かしている「為替のマーケット」には、ただお金を殖やすだけではなく、知識とか教養とか経済観とか、難しいけれど知っていると、何よりも自分の「武器」になる。 そういう魅力がいっぱい詰まっている。その結果、自分のお金も増えている!知識も広がる。視野も広がる。 一言で言うと、FXとはつまるところ、自分自身との闘いである。 つまり、金融商品は21世紀の人間生活にとっては、大きな役割を果たしている。この短い論文で、外国為替証拠金取引と、その歴史、現状、方法、及び将来性と問題点など、を簡潔に分析しておきたい。 第1章、外国為替証拠金取引とは 外国為替証拠金取引とは、証拠金(保証金)を業者に預託し、主に差金決済による通貨の売買を行うと言う。「FX」、「通貨証拠金取引」、「外国為替保証金取引」とも言う。FXはForeign eXchange=外国為替の略に由来している。 日本では、FXの歴史が短い。1998年に外国為替法と外国貿易法が改正されて、ごく少数の証券会社が取り扱いを始める。インターネットの普及も手伝って市場が急速に拡大した。 商品先物会社と証券会社のほか、FX取引を専業で取り扱う外国為替取引業者も現れる。取引の仕方によっては非常に高いリスクを負うために、実際の取引にあたっては外国為替相場に関する十分な知識や経験を要する。 外国為替証拠金取引には、外貨預金、外貨建てMMFなど、ほかの外貨建て金融商品と比較して、以下の特徴がある。 多くの外貨建て商品では、通常が外貨を買ってから後に売るという取引になるが、外国為替証拠金取引では、逆に外貨を売ってから一定期間後に買い戻すことも可能である。 レバレッジを利用することによって、証拠金の何倍もの外貨を取引することができる。但し、証拠金以上の損失を受けることもある。 株式先物取引とは異なり差金決済のため同一通貨を何回でも取引できる。 為替レートの同一の時の、売り相場と買い相場が、ほかの金融商品と比べて小さい。金利の高いポジション(ロング)の場合の、金利差による受け取りスワップポイントも、ほかの金融商品より有利な場合が多い。 但し、受け取りスワップポイントによる利益を享受できるのは、買いポジションにある通貨が上昇している時だけで、下降時には受け取りスワップポイント以上の多大な損失を受ける。 一方の貨幣価値が上がると他方の貨幣価値が下がることから、取引の儲けは必ず他方の損失から成り立っており、株式のように為替市場全体の富が増加することは無い、と考えるのが一般的である。しかし、別の考え方も成り立つ。 なぜなら、市場全体が投機筋による取引では決してなく、実需筋の取引も無視できないからである。 すなわち、外国為替を行うもの全員が投機目的であれば、誰か得をした分、別の誰かが損をすることになる。しかし、実際には実需筋による取引も多い。 例えば、アメリカに旅行に行く日本人が、現地での消費に備えて日本において日本円でドルを買い、アメリカでそのドルを消費した場合、これを損失、ないし利得と言えるのかは、疑問である。 すなわちゼロサム論は、「全取引者が、やがて元の自国通貨に戻そうとする」ことが前提となっているのである。 もちろん、FXという投機目的の市場が、実需筋の市場とは完全に切り離されていれば、ゼロサムなのであるが、FXの市場でも、結局は実需筋を含む外国為替市場の価格にほぼ従って取引されているので、そのようなことはない。 実需者による片道取引をも、損失ないしは利得と観念するのであれば、ゼロサムだと言えるのであるが、片道取引においては損得を判断すべき基準レートがない。 なお、実際は実需が全体の取引に占める割合は1、2割に過ぎないと言われている。投機筋全体として、プラスとなることもマイナスとなることもある。 取扱い事業者および外務員は登録制(改正金融先物取引法:2004年12月成立、2005年7月1日施行)であるが、FX事業者の破産や詐欺行為などを事前に予防・担保する法的・財務的規制が十分でない状態であり、委託証拠金が分別管理されていない事業者の場合、預け入れ金が返還されない可能性があるなど事業者リスクを十分検討のうえ配慮する必要がある。 証券会社の取り扱うFXについても、通常は分別保管の対象外や日本投資者保護基金の補償対象外となっているので確認する必要がある。 なお、委託証拠金が分別管理されているという前提での話であるが、FXの場合、事業者が破綻しても顧客の資産は保護されるため、破綻時に保護対象でない外貨預金より、破綻リスクに対しては強いという見方もある。 第2章、レバレッジとは 外国為替取引では、レバレッジを利用することにより、証拠金以上の外貨を取引することができる。 レバレッジは、取引業者との契約によって定まる最大レバレッジと、預けている証拠金と実際の取引量の比率である実行レバレッジがあるのだが、両者はしばしば混同される。 実行レバレッジの倍率を高くするほど為替相場の変動によるリスクは高まる。 最大レバレッジは、実行レバレッジが同じであれば、高いほど後述するロスカット(LC)が起きにくくなって、取引余力が大きくなる。 取引業者によっては、500倍もの高いレバレッジも設定可能であるが、100倍以上の実行レバレッジではロスカット(LC)されやすく、リスクが高いとされる。 逆に証拠金と同額の外貨を取引する(レバレッジ1倍)という外貨預金に近い比較的低リスクの取引もできる。 仮に実行レバレッジが100倍で取引した場合、1%の変動が(1ドル=100円)100%の変動になる。利益なら証拠金が2倍になるが、損失なら証拠金金額を失う。 高い実行レバレッジであるほど、リターンが高まる分リスクが高まることを理解しなければならない。注文後にすぐにストップロスを必ず使い、被害を最小限に収めることが大切である。 実際には商品先物の証拠金取引と同様、損失が一定額を超えると、ロスカットルールによって、強制的に反対売買がなされる。またそれよりも損失の小さい段階で追加証拠金の差し入れを請求される(マージンコール)場合もある。 ロスカット判断は取引時間中にほぼリアタイムで行われているが、システム状態によっては、必ずしもリアタイムとならない場合もあるほか、週明けに大きな変動があることもあるため、特に高い実行レバレッジの損切りではロスカットルール以上の損失が発生するケースも多い。 外国為替を原資産とする場合、そもそも通貨の両替から派生しているが故に、上場の有価証券とは本来的にその性質が異なる。 ここにおいて、レバレッジの概念は想定元本のみならず、評価損益をどの程度の頻度で管理すべきか、という極めて高度な信用リスク管理と表裏一体であるが故に、この部分を行政・立法という公権利、若しくは業界団体による自主ルールでの制定を行おうとする試みがあるが、一方で、リスク管理手法は各金融機関によって大きく異なるというのが実状である。 将来、最大レバレッジ25倍の規制が金融庁より導入される予定であるが、金融庁が投資家保護を目的として掲げているにもかかわらず、投資家の大半は、レバレッジ規制導入に批判的である。 第3章、ロング・ショートとは 外国取引証拠金では、「買い」の方の通貨をロング、売りの方の通貨をショートと呼ぶ。常に何らかの通貨を売り、何らかの通貨を買う、という取引をする。 これは、日本円でバナナを買う際に、バナナを買って日本円を売っているわけでもあるのと同様である。外国取引証拠金では、バナナの代わりに通貨を用いり、日本円を売って、ドルを買う、ドルを買ってユーロを売る、というような取引をする。上記の例では順に、ドルロング円ショート(ドル円ロング)、ユーロショートドルロング(またはユーロドルショート)という言い方になる。 通貨のペアは、USD/JPY、EUR/JPY、EUR/USDなどと表記が決まっているので、「ドル円ロング」と言えば、円はショートされている。同様に「ユーロドルショート」と言えば、ドルはロングされている。但し同じ取引をドル円ショート、ドルユーロロングなどという言い方は慣例としてしない。 第4章、外国為替証拠金取引の例とは 1ドル=120円、レバレッジ20倍で取引する場合、60万円(5000ドル相当の円)を証拠金として預託すると、5000ドル×20=10万ドルの取引が可能となる。つまり、証拠金は取引額の5%になる。1ドル=120円の時に取引開始して、10万ドルを買い、その後、円高となって1ドル=115円になったとする。この時の収支は、 1ドルあたり、115円-120円=-5円であるから、10万ドルでは50万円の損失である。また、証拠金は1ドル=120円の時に、5000ドルであるから、60万円である。 初めの証拠金の60万円に対して50万円の損失を差し引くと、残るのは10万円だけであり、始めの1/6となる。 上記と逆に、円安となって1円=125円になった場合は、50万円の利益となる。つまり、初めの証拠金の60万円が110万円となり、およそ2倍となる。 近年、成長著しい中国の元を取り扱う業者はごく少なく、扱っていてもスワッポ金利がつかない場合や、中にはスワッポ金利が売り買い共にマイナスというケースもある。これは、中国元の元市場が先進国の通貨に比べて自由化されておらず、通常の方法で取引できないためである。 第5章、注文の処理の仕方とは FX取引会社が注文を処理する方法には複数ある。FX業者によって異なる。インターネットをいじることができる人ならば、誰でもFXをやれる時代になる。 相対取引、直接売り買いする人同士を結びつけるのではなく、外国為替を売り買いする人は、FX会社と売り買いする(相対引取り、OTC-Over The Counter)。 大半のFX事業者はその注文を受けてカバー銀行などに発注する。流動性をFX事業者が保証するが、その代わり、大きなロット数を受け付けない場合が多い。スプレッドが固定のFX事業者は主にこのタイプ。 ECN(電子証券取引ネットワーク)Electronic Communications Network。電子取引システムによる私設の取引所。売り買いを直接結びつける。気配値に対するロット数が公開されることが多い。 マーケットメーカー方式よりも、大きなロット数を受け付けることが多いが、逆に最小取引金額が大きめな場合もある。 自分の取引所ではさばききれない場合、流動性の確保のため、ギアアップ制度により、他所の銀行や取引所に注文を流すこともある。海外では私設ECNマーケットが複数存在するが、日本では公設(クリック365)ECNのみ。 NDD-No Dealing Desk。注文を受けたら、他の流動性を提供する会社に注文を流す。他のカバー銀行などから、もっとも条件のよい値段を客に提示する。 第6章、リスクとは 第7章、課税方法とは
第8章、金融商品に関する法制限とは
第9章、関連項目
外国為替、悪徳商法、外国為替市場、外国為替及び外国貿易法、金融商品販売法、金融商品取引法、金利平価説、売買力平価説、為銀主義など 終わりに、将来性と問題点
参考文献と注釈 2009/11/20 美国研究①「アメリカ研究」①
はじめに アメリカと言えば、マクドナルド、ジーンズ、野球が、目の前に浮かぶ。 世界の歴史を眺めると、クリストファー・コロンブス(Christopher Columbus、1451~1506年)がアメリカ大陸(1492年)を発見するのをきっかけに、1607年に始まる北米イギリス植民地は、あっという間に十三の植民地となった。 1776年7月4日に、ジェファソンの起草になる「独立宣言」が発布され、アメリカは独立することとなった。1787年に連邦憲法が批准され、1789年4月に連邦政府が正式に発足することとなった。 アメリカの歴史は、原住民であるインディアンの歴史を除けば、せいぜい400年くらいで、短い。アメリカ人とは、『アメリカ農夫の手紙』(1782)によれば、ヨーロッパ人か、ヨーロッパ人の子孫であり、ヨーロッパ人の「混血」であると書かれている。このようにアメリカの歴史が短いということは、近代社会と共に始まったと言えよう。 アメリカ社会は、ヨーロッパ社会、中国社会と比較して厳格な身分制度を持たず、それだけ個人の能力を自由に発揮することができる。独立奮闘、機会均等、自由競争というアメリカ人の理想は、相対的にはまた現実でも有り得たのである。 空間から見れば、アメリカは、広い。ロシア、カナダ、中国に次いで第四位となるが、非常に良い地形と気候と資源の多様性に恵まれている。 アメリカ本土には、大西洋岸寄りにアパラチア山脈、太平洋岸寄りにロッキー山脈とカスケード、シェラネバダ両山脈が聳える。これら山岳地帯の間には、世界有数の、幅2000キロの大平原が広がる。その中心にミシシッピ川とその支流がメキシコ湾に向かって流れ、河口には巨大なデルタが存在する。この南北に走る山や川が、北アメリカ大陸の基軸をなす。 大西洋、太平洋、そして北極洋に包まれているという地理的な条件は、アメリカ社会の発展に大きな影響を与えてきた。1620年に、メイフラワー号に乗って、ピューリタンたちが大西洋を渡ってきた時、この天然たる隔たりを克服するには実に二ヶ月余りかかった。如何にもヨーロッパから遠い地であったのである。 アメリカは、こうした大西洋と太平洋に守られて、独立以来、激しい勢いで、広大なアメリカ大陸に膨張していった。アメリカの発展にとって、この広大な国土は、農業用の耕牧地としても工業の市場としても、重要な意味を持っているし、豊富な天然資源を内蔵しているのである。 また、アメリカが多様な人種から成り立っている。白人、黒人、中国系、日本系、ヒスバニック、インディアンなどに彩られている。事実、人種差別の問題は深刻である。 アメリカ人とは、自然にアメリカ人であるというよりは、人為的にアメリカ人になったもの、またその子孫のことであると言えよう。アメリカは、ヨーロッパのような身分制の壁は少ないが、そうした人種間の、新旧移民間の微妙な壁が存在していると思われる。 独立戦争、南北戦争、奴隷解放、モンロー主義、棍棒外交、ドル外交、宣教師外交、第一世界大戦、孤立主義、大恐慌、ニューディール、第二次世界大戦、冷戦時代、朝鮮戦争、ベトナム戦争、公民権運動、ソ連崩壊、湾岸戦争、9・11テロ、イラク侵攻、アフガニスタン戦争、一国主義、及びオバマ登場、アメリカは、建国から今までの歩みを振り返ってみると、その目まぐるしい進化と素晴らしい変貌について、脱帽するしか言いようがない。 わたしは、アメリカの広大な自然を思い浮かべながら、中国がアメリカに学ぶべき事とは何か、アメリカの歴史文脈、建国理念、外交政策、主な出来事、つまり、アメリカの多文化社会の夢と現実を簡潔にまとめ、その成功の経験と失敗の教訓を鏡に、分析しておきたい。 どちらかというと、一国の文化の特色は、ほかの国の文化と比較して、始めて分かるし、論じられるであろう。まさに比較文化的な見方ができるという点で、かえってアメリカ文化の特色を見抜くことができると言えるかもしれない。 はじめに、(1ページ)
目次、(2ページ) 序章、(3~5ページ) 結論から言うと、中国の共産制資本主義は、日本の天皇制民主主義と同じように、ねじれ政治制度である。 第1章、(6~11ページ) アメリカの400年の歩み 第2章、(12~17ページ) 連邦制と三権分離の真髄 第3章、(18~23ページ) 見える手と見えない手の業 第4章、(24~29ページ) 宗教と信仰 第5章、(30~35ページ) 孤立主義と膨張主義の謎 終章、((36~40ページ) 中国、アメリカ、日本:三者の関係の未来像 参考資料、(41~43ページ) 注釈、(44~45ページ) 引用・参考文献一覧、(46ページ) 終わりに、(47~48ページ) 補論、(49~50ページ) 2009/11/12 日本研究① 「日本キリスト教史研究序論」
――1859年から2009年までの歩みと苦闘を中心に―― はじめに およそ五百年前、キリスト教は日本に入った。大体、六期に分けることができる。 ① 1549~1587 異神 ② 1587~1859 邪宗門 ③ 1859~1873 イエス教 ④ 1873~1889 洋教 ⑤ 1889~1945 基督教 ⑥ 1945~2009 キリスト教 一期は、キリスト教が渡来し、異国から来た宗教とされ、バテレン追放令が出されるまで。 二期は、宣教師の追放、禁制、鎖国で邪教とされていた時期で、開国までの長期にわたる。 三期は、禁制は続き、伝道ができなかったが、やがて、禁制の高札が撤去されるまで。 四期は、伝道の黙認から西洋化の波の押し寄せた時代で「大日本帝国憲法」の発布まで。 五期は、「大日本帝国憲法」から1945年敗戦まで。 六期は、敗戦と「日本国憲法」により、信教の自由を得て以来、今日まで。 或いは、キリシタン時代1549~1868年、明治期1868~1912年、大正期1912~1926年、昭和前期1926~1945年、現代1945~2009年という分類法も。 しかし、不思議に思うのは、宗教人口が少ない。キリスト教でさえミニ宗教である。なぜキリスト教が日本で大きくなることができないのか? 禁教と鎖国の結果、キリシタンは、まもなく表面的には日本全国から根絶してしまった。ところが、その後も、キリシタン取締り諸制度は、そのまま存続され、禁制の高札も踏み絵も、幕末に至るまで三百年にわたり維持された。
幕末になると、かつてのスペイン、ポルトガルに代わって、イギリス、アメリカなどがアジア進出を開始した。これらの諸国のアジア進出とあわせ、結果的には中国や日本でのキリスト教プロテスタントの伝道が始まることになるが、福音主義運動とも信仰復興運動とも呼ばれるものである。 ドイツの敬虔主義に起源を求めることができる福音主義運動は、イギリスで18世紀の中頃から19世紀の初めにかけて盛んになった。福音主義運動とは、制度化し固定化したイギリス国教会の信仰に対し、キリストによる贖罪、信仰義認、聖書主義というような福音そのものを中心に掲げる運動であった。 1792年に、パブテスト伝道会(Baptist Missionary Society)が結成され、1795年に、ロンドン伝道会(London Missionary Society)が設立し、1818年に、メソジスト伝道会(Methodist Missionary Society)などが相次いで結成された。 一方、新大陸のアメリカでは、東部のニューイングランドを中心とした宗教と政治とが一体の、いわゆる建国神話時代が過ぎ去ろうとしていた。次々と流入する大量移民と、西部への人口移動によって、社会は大きな変動期を迎えていた。思想上も合理主義、啓蒙主義が次第に支配的になり、俗化を助長していた。 こうした社会状況に対し、ピューリタン的信仰を図る運動が起こるのは不思議でない。信仰復興はフロンティアへの伝道熱となって表れる。東洋などへの外国伝道熱も同じ信仰高揚の動きのなかから生じた。 1853年に、ペリー(Matthew C.Perry、1794~1858)の来航の結果、1856年に、アメリカ領事としてハリス(Townsend Harris、1804~1878)が下田に着任した。1858年に、日米修好通商条約が結ばれ、同条約の第八条において、アメリカ人の居留地における信教の自由と礼拝が認められた。同条約の発効する1859年から、公式に日本への宣教師の渡来が実現を見ることになる。 日本プロテスタント史の上で本土に着任した最初の宣教師とされるのは、アメリカ監督教会のリギンズ(John Liggins、1829~1912)であった。1859年に10月18日にアメリカ長老教会(Presbyterian Church in the United States)のヘボン(James C.Hepburm、1815~1911)11月1日に、アメリカ・オランダ改革派教会(Reformed Church in America)のブラウン(Samuel R.Brown、1810~1880)などが日本に到着した。日本のキリスト教は、長いトンネルを通り抜け、真冬の暁を迎え、ようやく歴史の幕を開けた。 1859年までに、以下に述べるように幾つかの歴史に残る出来事がある。 1、キリシタンの流行 15世紀になると、ポルトガル、スペインをはじめとする西洋諸国のいわゆる「西力東進」が開始した。ローマ・カトリックの反宗教改革運動の結果、1534年に、ザビエルらによって、イエズス会が結成された。キリストと教皇の命令に従い、布教の前衛として挺身を志す修道会であった。ザビエルとイエズス会の献身的な伝道を通じて、日本キリシタンの最盛期には、その信徒数は60万~70万人とも言われる。 2、最初の日本語訳聖書 「約翰福音之伝」及び「約翰上中下書」で、1837年にシンガポールで印刷された。 3、モリソン号事件 1837年夏、アメリカの商船モリソン号が来航、浦賀沖で撃退される事件が起こった。船主は広東にあるアメリカのオリファント商会だった。来航の目的は三つあった。 第一に、船主のオリファント商会が望む通商である。 第二に、伝道であり、S・W・ウイリアムズ(Samuel W.Williams)が同乗していた。 第三に、漂流民尾張の音吉ら三人と肥後の庄蔵ら四人の送還である。そのためにモリソン号は武装していなかった。 実は、1825年に、幕府は、異国船と見かけたならば委細かまわず打ち払えとの、「無二念打払令」を出していた。 1853年、ペリー来航によって、日本は三百年の鎖国の扉が開かれ、開国となった。1859年に初めてプロテスタントの宣教師が渡来し、日本の伝道事業が着手された。開国しても、禁教の高札のため、英語を教えたり、英学塾を開いたり、伝道の準備をしていた。 まもなく、徳川幕府が倒れ、明治政府が誕生した。1868年3月に五箇条の御誓文が発せられて、「文明開化」「富国強兵」のスローガンのもとに近代国家への第一歩を踏み出した。しかし、旧幕時代の禁教方針は変わらない。少しも禁教の手も緩めなかった。1873年2月に、キリスト教解禁の前後には、プロテスタント教会が設立された。
日本におけるプロテスタントの発祥の地は、中央では横浜、西は熊本、北は札幌で、それぞれ横浜バンド、熊本バンド、札幌バンドと呼ばれる。1871年の歳末から翌年1月初週にかけて、横浜では、宣教師や在留外国人たちは、祈祷会を開いて、熱心に日本宣教のため祈った。この祈祷会を、植村正久は回顧録において、以下のように述べている。 『諸藩の人士多く外人につき語学を修めたり、中にも数名の少年達は英学を修める余暇に時時キリスト教の講談に耳を傾けたり。此輩大いに感ずるところありて、明治五年正月バラ氏に乞うて、西洋人のなすがごとく、初週祈祷会を開けたり。会する者凡そ三十名、今まで祈祷の声発することなかりしに、甲祈り、乙これにつぎ、或いは泣き、或いは叫びて祈りするもの前後を争ふが如くにてありさ、面のあたり一大リバイバルを見たる心地せり』。 1872年3月10日に、押川方義、篠崎桂之助、安藤劉太郎、吉田信好ら九名がバラ(1832~1920)から洗礼を受け、聖餐式を守り、先に受洗した小川、仁村守三を加え、十一名で、バラが仮牧師、小川を長老にあげ、日本基督公会を設立した。これは日本最初のプロテスタント教会である。 明治のはじめ、キリスト教を受け入れた人たちは、キリスト教によって、新日本を建設するというナショリストであり、「神と国家のため」が彼らの合言葉であった。当時の日本は、先進資本主義国からの、軍事的、経済的独立を目指して、富国強兵策を第一とする国家主義であり、キリスト教界も、教会を設立し、伝道を続けるために、国家に対して、どのように対処していくかは大問題であった。 一方、明治政府は、憲法、議会など近代的装いを施しながら、天皇制を中心に、中央集権的支配体制を固め、日清、日露の勝利、産業革命の成立などによって、強力な国家体制に入っていた。 このため、キリスト教徒の行動と倫理は、国家倫理と、齟齬矛盾して、植村正久、内村鑑三のような、またキリスト教社会主義者たちは、この体制と戦わざるを得なかった。このような国家との緊張関係のなかで、教会を形成し、キリスト教学校を経営していくのである。教会の枠に入らない無教会主義、或いはキリスト教社会主義、YMCAの成立なども、この時期に入るのである。
4、日本基督公会 日本ではじめてのプロテスタント教会は、1872年「日本基督公会」という西洋の教派の伝統を破って、超教派の立場に立った教会であった。この公会が、東京、大阪、神戸、三田、京都、上田などに広がり、いずれも基督公会と称した。 5、アメリカ監督教会 アメリカ監督教会は、リギンズ、ウイリアムズを派遣した。東京と大阪を中心に伝道し、1878年に聖三一教会、1883年に立教教会が創立された。一方、イギリス教会伝道会は、エンソー(G.Ensor)を派遣した。彼は在日四年の間に、東京に聖十字、聖ステパノ教会を設立し、また横浜に聖アンデレ教会を設立した。以上三ミッションが別々に伝道していたが、1878年のランベス会議の決議に基づいて密接に提携し、経済的にも互いに助け合った。 6、日本基督教会 日本基督教会は、1859年に日本に最初に伝道を開始したアメリカ長老会と、アメリカ・オランダ改革派教会に、1874年に伝道を開始したスコットランド一致長老教会の三つのミッションに、日本基督公会、アメリカ婦人合同伝道会社などが、加わって、1877年10月に、合同を決議して、「日本基督一致教会」を組織した。此のうち三者ミッションは、いずれもカルベン主義に立ち、教会政治から言えば長老主義を取るもので、相互に近似性を持っていた。そして信仰告白、教会政治についても、主義、主張を異にするわけでもないので、日本に強力な伝道体制を作り、教会を多く設立していくためには、合同したほうがよいと見たものであろう。 7、日本組合基督教会 アメリカンボードと言われるアメリカ伝道会社を母胎とした教会である。「日本基督公会」の方針に従って、摂津第一、摂津第二、摂津第三など基督公会と称した。1876年にも京都第一公会、京都第二公会、京都第三公会、設立した。1878年に浪花基督公会を設立した。途中、分裂し、日本基督伝道会社を設立して、自由独立の精神、教会の自治、独立、自給を重んじる会衆主義を掲げ、伝道の向上を図った。 8、メソジスト教会 アメリカメソジスト教会は、高札が撤去された1873年に、日本に伝道を開始した。横浜、東京、長崎などを伝道の拠点とした。 9、バプテスト教会
1873年3月に、ブラウンは横浜第一バプテスト教会を設立し、また新訳聖書の和訳に努めた。1876年5月に東京第一バプテスト教会を設立した。 このほか、福音教会、美普教会、フレンド派教会などがある。
凡そ、どの教会でも、それぞれの信条を持ち、また教会政治、聖礼典、教職制からさらに、礼拝形態、生活態度を持っている。プロテスタントでは、発展過程において、分裂に分裂を重ねて、多くの教派が成立したが、その教派に属する者にとっては、止むを得ない必然性であった。自分の信ずる教派は絶対であった。日本でも、教派が分裂したのも当然のことであろう。 10、無教会主義 内村鑑三は、彼の処女作「基督信徒のなぐさめ」において、初めて「無教会」という言葉を用いた。 無教会主義のキリスト教徒は「イエス・キリストは無教会であった」「パウロは無教会であった」との理解を共有することが多い。また、無教会主義は「教会」よりも「キリストの十字架」を重んじると言われる。実際、内村鑑三はキリスト教が十字架教であると言っている。 無教会主義は、教会主義・教会精神からの脱却をめざす主義であって、キリスト教の福音信仰そのものを否定する主義ではない。無教会主義は、ある意味では教会に所属する所属しないと言ったことに、無頓着な主義であるとも言える。そのため、教会に所属しながら無教会主義であることも可能である。
キリスト教の歴史を通して教会にいろいろ付随して来た余計な権威・権力を克服しよう、という理念にたった運動が無教会主義であり、マルチン・ルターの宗教改革の二大原理(「聖書のみ」「万人祭司」)を極端に現実化したものである。 按手礼を受けた聖職者(牧師・正教師)を持たないので、無教会の集会または礼拝は儀礼(サクラメント)や説教を中心としたキリスト教の伝統的礼典から離れ、結果的に聖書の研究・講義が中心となった。
そのために、無教会では知識に重きをおく一方で、霊的な側面を軽く見る傾向がある、と見られることがよくある。
現在、約100万人のキリスト教信者の中に、無教会に属する人数はせいぜい2万人であろう。 『無教会が、私が言うように「神秘主義」であるのは、洗礼と聖餐のような礼典を認めないからである。しかし実際には、無教会にも儀式、しかも教会の儀式よりももっと厳格な「礼典」があるのではなかろうか。
無教会の「先生中心主義」は、聖書の真理は人格的である、と言いながら実は、極めて日本的な古い師弟関係からきているものではないだろうか。そこにおいては、教師は絶対的な権威を持って教えるものであり、子弟はその言うことに絶対的に服従していくものである。私が思うに、教会の「牧師中心主義」にしても、無教会の「先生中心主義」にしても、それはみな明治以来の武士階級と結びついたわが国独特のプロテスタント・キリスト教の特徴である』。(古屋安雄『日本のキリスト教』) 11、精神「維新」 ようやく1873年に、キリシタン禁制の高札撤去の太政官布告が出された。文明開化の風潮は、勿論英語の時代の到来も告げた。女子教育も段々盛んになり、一部の学校では、男女共学に踏み切った。キリスト教入信者の数は順調に増大した。 日本人のキリスト教理解の媒介となった思想として、陽明学の影響が大きかった。キリスト教への入信にあたり、陽明学との関係が少なからず認められる人物の名前には、吉岡弘毅(1847~1932)、本多庸一(1849~1912)、沢山保羅(1852~1887)、松村介石(1859~1939)、海老名弾正(1856~1937)らがある。
12、教育と宗教の衝突 1889年2月11日に「大日本帝国憲法」は発布された。その朝、文部大臣森有礼が、暗殺される事件が発生した。やがて、「教育勅語」(1890年10月30日)に対する内村鑑三が、いわゆる「不敬」事件が起こる。 内村は、「教育勅語」を宗教的対象として「礼拝」することには疑問を抱いていた。「教育勅語礼拝」は、神以外のこの世のものを絶対視することになり、宗教的良心に反する行為と見たからである。
国家主義教育を担う文部省にとり、キリスト教徒やキリスト教学校によって示される反国家主義的傾向は当然好ましいものでなかった。一時、教育と宗教との衝突論が溢れる。
13、靖国神社と戦争責任 近代日本における政府のキリスト教政策を見ると、キリスト教に対しては次の対応をしてきたと言えよう。 禁制 1868年、禁制の高札撤去まで 黙認 1873年、禁制の高札撤去から 公許 1889年、「大日本帝国憲法」発布から 公認 1912年、三教会同から 徳川幕府の政策を引き継ぎ、明治維新の結果から生まれた新政府は、神道国教化もあって禁制を公示した。しかしキリシタン信徒に対する弾圧を諸外国から非難され、信仰を黙認する方針に転換した。 大正時代に入ると、「大正デモクラシー」と呼ばれるように、民本主義思想と普通選挙運動、婦人参政権運動が起こった。それらの思想や運動のいずれにも、キリスト教信徒の姿が目立つ。 日本のキリスト教信徒のみならず近隣諸国の人々の良心をもっとも苦しませたものは、天皇制国家体制と靖国神社参拝問題であった。明治維新においては、祭政一致、神道国教化政策が強引に推進された。 それが廃仏毀釈にもなったため仏教側の反発を買い、キリスト教側からも信教の自由を求める声が上がった。1875年の大教院の解散、1877年の教部省の廃止、内務省に社寺局を設置することにより、急進的な神道国教化政策は、ひとまず頓挫した。
代わって神社を「国家の宗祀」としての、宗教ではなく、祭祀のみの存在とする施策がとられた。1899年の条約改正を機会として、政府は信教自由の実を示すため、同年「神仏道以外の宗教」(キリスト教など)にも、「宗教の宣布」を正式に認めた。あわせて翌年、従来の社寺局を神社局と宗教局に分け、政教分離を見せようとした。 政府は、神社を祭祀のみの存在とすることで宗教の仲間から外し、国家により特別扱いをしても、宗教でないから信教の自由に触れないと考えたのである。ここに「神社は宗教であるか非宗教であるか」の議論が生じた。神社非宗教論は、宗教の定義によるとしても、もともと宗教であるから無理があるようだ。人は神社に参拝に行った時、現実には祈願をするので、宗教生活との相違はない。たとえ祭祀のみとしても祭祀自体が宗教でないとは言い切れない。
「満州事変」を契機に戦争への準備が本格化した。それは近代日本の思想、宗教の重要な分岐点と言えよう。これを境に以前の平和主義者や自由主義者たちまでが、一転して思想の変化または屈服、沈黙に入っているのである。この時から日本の歴史は軍部による十五年戦争(1931~1945)に突入した。 台頭する軍部はすでに殺気に満ちている。「ゴー・ストップ事件」によって、大阪の教会に対して、大阪憲兵隊特高課長名で13か条からなる質問書が出された。 一、 キリスト教の神とは 二、 わが国八百万神々に対する見解 三、 わが天皇とキリスト教の関係 四、 外国皇帝(例えば英国)等と神との関係 五、 勅語と聖書の関係 六、 教育勅語による教育方針とキリスト教主義による教育との差異 七、 祖先崇拝に対する観念(神社参拝に対する念慮) 八、 皇祖皇宗の神霊に対する観念 九、 信仰絶対の境地とは 十、 信仰の自由に対する観念 十一、基督教は日本神道や仏教を偶像崇拝の迷信なりとする理由 十二、基督教と日本精神との関係 十三、ほか参考事項 これらの質問は、「治安維持法」などの容疑で取り調べを受けるキリスト教信徒にきまって向けられた質問である。1937年に日中戦争が勃発し、1938年に「国家総動員法」が設定され、1939年に「宗教団体法」が、可決された。戦争に向かう準備が整った。 敗戦後、日本は七年弱の占領時代を強いられた。天皇は戦争に対し、倫理上でさえ一切責任を負わずという形を取ったが止むを得ずに、「人間宣言」となったのである。
政教分離の事情について、議論する。アメリカを例に取ると、1791年、連邦会議は最初の憲法修正を行った。憲法修正第1条から第10条である。政教分離が憲法に明記されたのは、人類史上、これが最初である。しかし、日本における、政教分離についての一般的な理解は、宗教と政治の分離(separation of religion and politics)であり、アメリカにおける政教分離についての一般的な理解は、宗教と政治の分離ではなく、政府・国家と特定の宗教組織の分離(separation of church and state)である。
この観点から見れば、靖国神社という特定の宗教組織を、政府の長である首相が「公言して」参拝することは、明らかに政教分離の原則に抵触する。
自民党時代に首相参拝をめぐって毎年問題となっていた靖国神社の行方は、アメリカの「アーリントン国立墓地」を参考にすれば良いと思われる。「アーリントン国立墓地」をはじめとするアメリカの国立墓地の目的は、戦死者を祀るという政治的意図を持ったものであるが、個人の信仰は、無宗教をも含めて尊重されている。
これと比較すると、日本における国立墓地の議論は、政治主導であり、人間にとっての宗教の持つ意味を尊重するものにはなってはいない。
終わりに
振り返ってみると日本に初めてキリスト教が伝えられたのは、1549年、カトリック教会、イエズス会のフランシスコ・ザビエルによってであった。50年間に、その信徒数は60万~70万人とも言われる。しかし、やがて国の統一が進むと禁教令が出され、鎖国の時代に入り、多くの信者が殉教の死をとげた。
次にキリスト教が伝えられたのは、1859年の開国以後、外国の宣教師たちがやって来るようになってからである。19世紀中に、カトリック教会、プロテスタント諸教派、正教会など、伝統的なキリスト教会のほとんどが、日本に伝道して教会を建てた。
しかし、1890年以後、日本は天皇を神聖な元首とし、富国強兵を目指し、思想、教育をも統一管理する方向を辿った。そして、第二次世界大戦時においては、教会も戦争協力を強いられたのである。
1945年、日本の敗戦によって、信仰の自由の時代が来た。北米やヨーロッパから、多くの宣教師たちがもやって来た。日本のキリスト教会は、福音の本質を見つめなおし、国家と教会の関係を悔い改めと共に考え直して再出発したのである。現在でも伝統的な宗教と習俗が家庭生活や公の行事にまで入り込んでいる日本での伝道は困難で、クリスチャンの数はせいぜい約1%にしかない。
キリスト教は、日本にとり「異神」、「邪宗門」、「イエス教」、「洋教」、「基督教」、「キリスト教」であった。それは、時期によりニュアンスの相違はあるが、日本に大変異質な「お騒がせ宗教であった」反応である。
ある宗教統計によれば、アメリカでは、プロテスタント、カトリック、ユダヤ教、ギリシャ教などの、聖書を聖典とする「ユダヤ・キリスト教的伝統」(Judeo-Christian tradition)の流れを引く宗教に所属する人々は、全人口の90%近くにのぼっている。日本のキリスト教の現状は、異常な低さと言わざるを得ないのである。どちらかと言うと、日本のキリスト教会は、迫害排除、教派林立、崩壊分離の洗礼を受け、死ぬに死ねずという窮境に立たされている。もっとも日本は1889年までに、薩長藩閥政治の下にあったので、キリスト教の伝道事業を三百年以上ほど締め出された。
なぜかというと、天皇制は、封建主義であり、明治憲法にせよ、平和憲法にせよ、せいぜい民主主義の見せかけのものにすぎない。元々、天皇制とキリスト教は、油と水と思われるし、伴天連追放令、訓令十二号から、天皇のいわゆる人間宣言まで、実質には、一貫して宗教の排他性を持っていると言えよう。
敗戦後、新憲法ができ、信教の自由を認めることになっても、「天皇制民主主義」という歪んだ国家体制の下で、日本のキリスト教会の未来は、明るくなるはずは、まず無いであろう。(約10000字数)
参考文献
(1) 鈴木範久『日本キリスト教史物語』
(2) 片子沢千代松『日本のプロテスタント』 (3) 隅谷三喜男『近代日本の形成とキリスト教』 (4) 古屋安雄『日本のキリスト教』 (5) 古屋安雄『キリスト教と日本人』 (6) 田中浩『近代日本と自由主義』 (7) 鵜沼裕子『資料による日本キリスト教史』
(8) 内村鑑三『余は如何にして基督信徒となりし乎』 (9)J・C・ブラウァー『アメリカ建国の精神:宗教と文化風土』
(10)有賀夏紀・油井大三郎『アメリカの歴史』 2009/9/19 人是动物古希腊语说:人,是家庭与政治的动物。
最近,日本变天了!民主党执政,自民党下台。民主党执政方针是“国民生活第一”:
1,孩子从出生到15岁初中毕业,每月一人补助2万6千日元,杨扬9岁杨默7岁,属于此范围;
2,高中学费全免,每年12万日元,杨帆16岁,属于此范围;
3,实行最低年金,每月7万日元,折合5000多人民币,65岁以后;
4,高速公路免费;
5,中小企业贷款,延期三年偿还。
等等,都是有利民生好事。同时,医疗保险,十分完善。
10月5日,是父亲辞世周年,我不能回去尽孝,很不安。爸,请原谅。
暑假两个月,就这样过去,28日开学后,又要连轴转,真有点紧张。
上学期十二门课,期末平均成绩90点1分;四个S,五个A,三个B;英语同声传译,英文原著精读,西方哲学三门B。
事实上,英语下功夫最多,到头来成绩最差。郁闷!
下学期,选修九门课,争取好分数。
人,应当有梦想,有追求梦想的勇气与行动;生活才有意思。
有许多愿望,埋藏在内心,伴随着时间,会梦想成真。我相信。 2009/8/22 想念儿女2009年8月21日,是杨扬年满9周岁生日,由于忙,以及其他原因,没与儿子联系;然而作为父亲,如何能够忘记?!屈指算来,整整五年未见!不知命中注定,还是神鬼使然!!!
这孩子剖腹产,出生时个头大,医生要求母乳,孩子吃不出奶,急得狠咬奶头,他娘十分惊恐;情急下,我出去买豆浆,就这样,直接用杯子喝。
也许是第一口奶,没用奶瓶或奶头,而是用杯子缘故,导致孩子到断乳,几乎不用奶瓶。小时候杯子喝奶,长大后大口吃肉,如果能引导得法,应当是一条好汉。
如今世界男人女性化:敏感脆弱,娇生惯养,唯我独尊,自我中心,爱流眼泪,一句话,指望不上居多。男人是时间性动物,女人是空间性动物。而血缘关系的手术刀,竟把男人基本阉割了。真担心儿子在母亲外婆姨妈一大家子溺爱之下,变成中性。
有时细细想想,深感造化弄人!
2009/8/15 囚徒困境博弈论产生于20世纪40年代,到了90年代,宾默Binmore,肖特Shchotter等人将其用于研究经济制度,形成“博弈论制度经济学”,与自己目前研究欧美文化学关系甚大。其中最典型最简单博弈模型“囚徒困境”,能够恰当反映文化源头上,人类通过对自己与世界的理解,做出明智选择。
“囚徒困境”博弈模式,是在1950年由图克Tuker提出的。其基本思路是这样的:两人合伙犯罪,被警察抓住了,缺乏足够证据,指控他们罪行。假如,其中一人招供,罪名可以成立。同时守口如瓶,丝毫都不招供,会判较轻罪名,譬如扰乱治安妨碍公务等,各判1年徒刑;假如一方坦白,会被立即释放,另方重判8年;假如同时坦白,各判5年徒刑。
根据“个人利益最大化原则”,结果各判5年;不坦白是上策;然而,按照“自私性原则”,进行个体理性逻辑判断,坦白,是最佳策略。
酒井法子与其老公,酒井法子选择逃避,抗拒,老公选择揭发,出卖;连夫妻关系与儿子,都不能让这个孬种男人,承担甚至动物都不会逃避的行为准则。
20世纪诞生社会生物学,通过生物本性解释人类社会性,起源于美国昆虫学家威尔逊著作《新的综合》。其中,关于人类本性,做出四条定义:
第一,自私性,人都像基因一样是自私的;
第二,斗争性,人类个体在争取生存条件与生殖权利过程中,采取斗争方式决定;
第三,有条件利他主义,人类为了保存血脉延续需要,采取理性利他主义方式,如雄性保护自己性伴侣和后代;
第四,宗教性。
观察酒井法子夫妇,面对警方不同表现,来理解文化发生学,同时,通过“囚徒困境”思路,分析处于生态系统与文化系统交叉点人类,马上明白21世纪是“囚徒困境”危险系数最大时代。
至于酒井法子夫妇,如何走出“囚徒困境”,应当是文化的任务。从某种意义而言,文化,就是让个体懂得合作。 2009/8/14 電子雑誌「電子雑誌」を創刊したいという彼女から聞いた話は、耳元に響く。でも、苦笑いながら協力を拒む。なぜならば、やる気がないとか、手助けすることができないとか、などの理由ではない。ただし、あそこまで、力が無いという自覚をもっているからである。
今のところ、悩んでいる事は多い。まず、お金のこと。月に50、60万円くらいの収入で食うだけなら、何とかなるが、余裕のある生活、ないしは優雅な暮らしには、程遠い。
次は、彼女の場合、翌年の二月、卒業になるので、卒論という人生の大きなテーマについて、まだ何も準備していないし、どちらかと言うと、その重大さに対し、認識不足と言っても過言ではない。
2010年になると、彼女にとって、もう日本にきて、十年目になる。これから、どう生きていくなのか、人生の未来像がはっきり見えない。ちょっと頭を捻るとすぐ分かるように、女性にとって言えば、18歳から28歳までの意味合いが重い。人生にもっともかけがえの無い季節だろう。「電子雑誌」をやる前に、いろいろ、しっかり考えてもらいたい。
むしろ、自分も大きな問題を抱える。例えば、論文のこと、子供のこと、これからは、どうやって、生きていくなのか、など。いずれにせよ、博士号を取るまでに、目標が決まっているが、それは、手段だけで、目的ではない。自分の人生、つまり、これからの三十年、まったく見通しが立っていない。困る。
もちろん、この四、五年には苦労の連続ではあるが、最悪の事態までになってはいない。彼女がいれば、子供がいる。しかし、貧しい。ある意味では、貧しさの重圧が、人間の精神と気持ちを汚す、と痛く感じる。
まあ、頑張るしかない。 2009/8/11 飓风季节似乎进入飓风季节,连日暴雨大雨连绵,间或地震摇动楼宇,可能在日本住久了,失去躲避想逃感觉。本能,在司空见惯侵蚀下,已经变得麻木迟钝。
暑假,对我而言,是一种久远的回忆;1979年到2009年,之间,跨越三十年。
利用闲暇,定购新书,制定计划,复习古希腊语古拉丁语,阅读相关书籍,多多睡觉,成为连日来主旋律。
日本人重视英文崇拜西方文明,超出中国人想象。德国人擅思辨,法国人爱历史,英国人经验论,而日本教育与文化意识,欧美马首是瞻,程度匪夷所思。
自己想法简单,既然有机会进入日本校园,观察,研究,对比,分析;尽量选课,多多益善。大学教授,是日本知识阶层精英缩影;通过这些人,能够阅读到日本的过去,现在,与未来。
眼下任务,是收集资料,分析资料,处理资料;40字×30行=1200字×150页~300页﹦博士论文。序论,本论,结论;目录,章节,备注;文献,索引,后记;等等,在研究学问世界里,一切需要从头学习。
做学问,不是小说,感想,博客。坦率说,如何选择有高度,有深度,有价值研究题目,指导教授是否一流,耳提面命议论探讨,直接左右论文命运,是学问明暗分水岭。 2009/8/8 认识自己“人间学”教授说,当人从远处审视自己时,才能开始客观分析自我。
眺望自己四个月来忙忙碌碌身影,感觉恍惚仿佛隔世。
时至今日,尽管生活中依然存在许多问题没有解决,譬如:经济缺乏保障,生活远景模糊,儿女接触不足,等等。然而,缠绕五,六年来,阴魂不散的失败阴影,似乎基本摆脱掉了。
大约从2002年开始,伴随杨默出生,生活近乎崩溃;2004年5月恢复国籍,长达18个月蛰居之后,2005年12月重回日本;经过2006年2007年2008年,整整三年痛苦煎熬,2009年进入大学院学习,终于跨越重要反思期间,生命恢复重新启动状态。这些,难以用文字或语言准确描述。
人,不能忘记过去;然而,不能活在阴影中。
父母双双辞世,打击或者说唤醒自己。生命脆弱,不是儿戏;一旦失去,灰飞烟灭。是催生觉醒重要因素。
古希腊罗马哲学最大缺憾,恰恰在于漠视生命,将人生视为毫无意义循环往复;与老庄思想无为而治息息相通;是精神谬误。
从思想角度而言,二元论辩证法经验论;精神分析实用主义存在主义;相对于东西方古典哲学,属于认识进化与精神进步。
既然,生命只有一次,那末,笑,比哭好。 2009/8/4 福沢諭吉一、「孤立主義と四つの自由」 1823年11月の末、アメリカ第五代大統領ジェームズ・モンローは、ラテンアメリカに対するヨーロッパ諸国の干渉を阻止するために、年次教書では次のように宣言した。「自由かつ独立の立場を維持してきた南北アメリカ大陸は、今後、ヨーロッパのいかなる国によっても植民地化の対象と見なされてはならない。ヨーロッパに対する我々の政策は、ヨーロッパ諸国の国内問題には干渉しないこと、事実上の政府を合法的政府と考えること、そしてこの政府に友好関係を求めることなどである。しかし、わが大陸に関しては、事情は著しく、且つ明らかに異なっている。 同盟諸国は、その政治制度をこの大陸のいかなる地域に拡大することも、我々の平和と幸福を危うくせざるを得ない。また、南米のわが兄弟たちが自由に任されるならば、彼らが自発的にヨーロッパの政治制度を採用するなどとは誰にも信じられないことである。従って、いかなる形にもせよ、このような干渉を我々が無関心に見守るということも同じく不可能なことである。アメリカの真の政策は、これらの新政府が自由に進路を決められるよう支援することであり、また、他の諸国にも同じ方針を採るよう臨むことである」。 モンロー教書の意味は、アメリカ史上、不滅のものとして、位置づけられることになった。それは単に、19世紀から20世紀の初頭にかけて、アメリカ外交の聖典としてよみがえり、形を変えながら今日まで影響力を持ってきたばかりではなく、むしろ、その重要性は、アメリカの外交の原型が示されていることにあろう。 モンロー教書から70年余りを経て20世紀を迎えた頃、アメリカは世界の超大国に成長した。しかし、所謂帝国主義の時代の中にあって、アメリカの帝国主義の一つの大きな特徴と言えば、それは、アメリカが、植民地政策においても、「自由、平等、人民主権」といった価値を掲げ続けたことである。アメリカの目的は、被支配者たちが秩序ある社会を形成し、自立してやっていけるよう助けることなのだ。 1914年から欧羅巴大陸を広げられた第一次世界大戦は、アメリカの使命感を大きく煽った。ウッドロー・ウィルソン大統領は、アメリカが「丘の上の町」として、範を示すべきだと考えて、「宣教師外交」をやり続け、彼の退陣する1921年までに、一瞬たりとも外交問題から解放されることはなかったのである。元々、国際政治に対する定見を持っていなかった彼は、国内政治に対する価値観と目標を、そのまま外交にもあてはめようとした。本当に「運命の皮肉」と言っても過言ではない。 しかし、1930年代の「孤立主義」への回帰は、アメリカが再び世界の舞台に登場するための布石に過ぎなかったともいえる。1939年に欧羅巴戦争が始まる。特にナチスドイツがフランスを落としたことによって、アメリカが大きな衝撃を受けた。当時、ルーズベルト(FDRvs.Willkie)政権が①イギリスを援助する②直接参戦はしない③自国の軍備強化を急ぐという三つの政策を決めた。当選後、1941年1月にルーズベルト大統領が「四つの自由」という有名な演説を発表した。1941年6月22日に、ドイツがソ連を侵攻し、12月7日に日本が真珠湾を襲撃した。それから、今になって、アメリカは、ずっと干渉主義になっている。四つの自由とは、 ①freedom of speech and expression ②freedom of worship ③freedom from want ④freedom from fear つまり、第二次世界大戦参戦をきっかけにして、アメリカの外交政策は、大きな転換に迫られつつあったのである。(1500字数) 二、「福沢諭吉のアメリカ観とは何か」 福沢諭吉と言うと脳裏に思い浮かんでくるのは、なんとなく一万円札に彼の像、と「脱亜入欧」という言葉である。日本では、彼は幕末から明治初期にかけての最大の啓蒙思想家であり、教育家であった。しかしながら、福沢諭吉のアメリカ観が何か、と問われると、正直に言って、ピンとこない。とりあえず、調べてみよう。 福沢諭吉の渡米の体験談は、だいたい、「唐人往来」と「西洋事情」を収録したようだが、唐人とは、本来は中国人のことを指す言葉であるが、ここで欧米人をも含めて広く外国人のことを指して用いている。 福沢は、「西洋事情」では、アメリカを全体として大いに評価しているのであるが、同時にその政治制度については、「合衆国の政治は独立の人民其気力を逞ふし、思ひのままに定めたるものなれば、其気風純粋精無雑にして、真に人類の止る可き所に止まり、安楽国土の真境を模し出したるが如くなる可きはずなるに、今日に至って事実を見れば決して然らず。合衆政治は人民合衆して暴を行う可し、其暴行の寛厳は立君独裁の暴行に異ならずとけれども、唯一人の意に出るものと衆人の手に成るものと其趣を異にするのみ」、と言ったのである。 福沢は、世界に五大洲があるが、アメリカ洲の内、北アメリカ、ヨーロッパ洲は上国、アフリカ洲、オーストラリア洲は下国、アジア洲の国々はアフリカ、オーストラリアとは比較にならないほど進んだ文化を持ち、産物も豊富であるが、とかく改革が下手で、千年も二千年も古の人の言ったことを一生懸命に守って少しも臨時応変に行動できず、無闇に自惚れの強い風潮がある、と指摘している。次に、福沢は、これからの世界は、外国と交易することによってそれぞれの国が余計なものと不足のものを取り換える方法こそが国益に繋がると説いている。 新しい時代の到来と市民社会の登場を予知させるものがある。従って、外国交際の基礎は交易にあるとする福沢は、外国人を排除することに反対し、国と国の間で条約を結んで、「世界普通の道理」に従って、平和な交際をせよ、と勧めている。いずれにせよ、福沢の考え方は、日本は軍事大国になるよりも商業共和国たれという理想に繋がるものであった。 この認識はその後の日米の外交史を見れば、正に正鵠を射たものと言えるが、しかし、そのような捉え方は、その後の日本がアジアで、ただ一つ突き出して近代国家の確立に成功していく中で、今度は中国蔑視あるいは朝鮮蔑視の思想となってアジア侵略を正当化する思想へと膨らんでいく明治知識人の多くに共通する「パン種」となったものと言える。 福沢諭吉の哲学と言えば、要するに、人生とは畢竟、遊戯なのだ。これは、彼のぎりぎりの人生哲学なのである。人生は本来戯れと知りながら、この一場の戯れを、戯れとせずして、あたかも真面目に務める。どうせ戯れなのだから、どっちへ転んでもたいしたことではない。ちなみに、ざっと軽く決断できるというのが、福沢諭吉の人生哲学である。 福沢は、西洋文明導入の先覚者だが、こういう人生哲学を根本に持っていたから、西洋文明に対しても醒めた見方をしていた。しかし、西洋文明一辺倒論者ではない。西洋でもかつては未開、野蛮の時代があったし、今の西洋文明も数千年経つと野蛮と見られるようになるかもしれない、という自覚を持っていたからである。しかし、少なくとも「今の欧羅巴の文明は即ち今の世界の人智を以て僅に達し得たる頂上の地位」にあるから、まずこれに学べ、と福沢は言うのである。 ここで重要なことは、福沢が、外国文明を摂取する際に、「外の文明はこれを取り易く」、「内の文明これを求めるに難し」と述べ、「文明の精神」を学ぶことを特に強調している点である。 戦前の日本は、西洋の外的文明(経済制度や軍事技術)を学ぶことにかなりの成功を収めたが、福沢の言う欧米の精神文明(人権、自由などの普遍的価値観)を摂取することに失敗した典型例である。つまり、福沢が最も危惧しているのは、明治維新直後の日本において、「文明の精神」すなわち「人民の自由の気風」が欠如している、という点であった。 そこで、福沢は、「今の西洋諸国の如きは正に是れ多事の世界と云ふ可きものなり」、と述べ、中国や日本に見られるような精神的停滞、旧習への惑溺を鋭く批判しているのである。また、福沢は、国家独立の手段と方法を「富国強兵」という言葉で表現し、これは、明治政府の言う「富国強兵」とは異なる。彼は「政府よく人民を保護し、人民よく商売を勤め、政府よく戦ひ、人民よく利を得る」ことが「富国強兵」である。とにかく、福沢は、欧米の文明を学び、人民の智徳を発展させて、そこに自由な気風が生まれれば、藩閥政府側の国権論は緩和され、他方、民権論側の政府批判も、力ずくではなく理に基づくものに変わるであろう、という期待を寄せていた。 福沢については、日本では昔からいろいろなレッテルが貼られている。有名なのは、「福沢コンパス説」なのである。「私は、先生を物に例える一つのコンパスの如き人である。コンパスというのは、どうでも伸縮して、小さな円も描き、大きな円でも書き、一本の足は自由自在に変化するが、他の一本の足は一点に固着して動かない。丁度福沢先生はこのコンパスの如き人である。独立自尊という主義の点にちゃんと立脚して、この一本の足というものは、どんなことがあっても外へ動かない。つまり、一方の立脚した所は少しも動かない。他の一方を自由自在に伸縮して、こうして、大円を描き、小円を描く」、と福沢諭吉の直弟子で鎌田栄吉は書いた。 最後に、福沢の言葉で、このレポートを終わりにしたい。 「西洋文明国の事情を一見すれば、人生の自由を貴び、其同等同権を重んじ、文物燦然として誠に文明の名に違はざるが如くなれども、其自由発達の極は貧富の不平均を生じて之を制するの手段なく、貧者はますます貧に陥り、富者はいよいよ富を積み、名こそすべて自由の民なれ、其実は政治専制時代の治者と被治者との関係に異ならず。又各国互に利害を異にして権を争ひ、此権利を守るに最終の方便は唯兵力あるのみにして、兵を増やし武器を作り多々ますます際限あることなし。以上の事情は固より百千年の後まで持続す可きものに非ず、到底数理の許さざる所なれども、左ればとての今の人事の実際に於て貧富を平均するの術なきのみか、強ひて之を行はんとすれば、唯社会の混乱惨状を買ふに足る可きのみ。或は兵備を無益なりとして之を撤せんか、国力忽ち微にして弱肉強食の奇禍を免れ難し。故に文明世界今日の事態を評すれば、到底行く可ざる道を行きながら一歩を退く可らず、後世子孫の事は唯天命に在りとして真一文字に進行するものと云ふ可し」。 いずれにして、福沢諭吉の人物像は、どちらかというと、多面的で、変幻自在で、宿命的な色彩が強く、謎が多い。そして、福沢諭吉の人と思想、哲学と「実学」、儒教批判と日本の近代化について、まだ分からないことが多いと思われる。しかし、「学問の勧め」、「西洋事情」、「文明論」、「自伝」などを繰り返して読んでも、さすがに「脱亜入欧」という言葉は、彼を理解するキーワードと言っても過言ではない。 2009/7/29 論文構想「ホッブズThomas Hobbes研究序論」(仮題) ―『リヴァイアサンLeviathan』を中心に― はじめに ホッブズの名前を始めて耳にしたのは、2009年に、田中教授の「比較思想研究」という講義を受ける時であった。ホッブズとはどんな人物なのだろうか。とりあえず、調べてみよう。 しかし、彼に関する資料は、意外に少ない。もう一つ驚くのは、ホッブズは、政治哲学の歴史における自らの位置を、天文学におけるコペルニクス(1473~1543年)、自然哲学におけるガリレオ(1564~1642年)、医学におけるハーヴェイ(1578~1657年)の位置になぞらえながら、自ら政治哲学の創始者を誇ったことである。 彼の名著『リヴァイアサン』を読んで、その内容の奥深さというより、むしろ、その一つ一つの部分が全体とどんな繋がりを持ち、如何なる意味を含んでいるかが、自分の興味を大きくそそった。 「哲学とは正しい推論によって得られる因果関係についての知識であり、その目的はまさに力の獲得にあったが、政治哲学の目的は人間性の科学的分析の上に立って、その延長線上に人々が平和的に生きるための義務と制度的条件を示すことにあった。すなわち、人間とはまさに「欲求」を追求し「苦痛」を回避しながら、それによって自己保存をはかっていく徹底的に利己的な存在であった」、とホッブズが言った。 いずれにせよ、ホッブズの人と思想について、思考の訓練として、彼の『リヴァイアサン』を通じて、二十一世紀の視点から、次の各章でその空想上の怪物「国家」の全貌を究明しておきたい。 2009年7月28日 目次 第一章、序論(3㌻~10㌻) 1、ホッブズの人物像 2、ホッブズの生涯 3、ホッブズの思想 4、ホッブズの著作 5、ホッブズの哲学 第二章、『リヴァイアサン』とは何か(11㌻~40㌻) 1、人間性について(第一部) 2、コモンウェルスについて(第二部) 3、キリスト教のコモンウェルスについて(第三部) 4、暗黒の王国について(第四部) 第三章、結論(41㌻~50㌻) 1、評価と批評 2、総括と結論 3、ホッブズとその後 4、ホッブズとロック、ルソー、ヘーゲル、マルクス、及び現代 5、ホッブズの晩年 参考文献 年譜 索引 第一章、序論(3㌻~10㌻) 1、ホッブズの人物像 ホッブズの友人であった有名な伝記作家J・オーブリ(John Aubrey)は、ホッブズを学究肌ではあるものの、同時に社交的で陽気な人物として描き出す。 「唇の下の先端をのぞいて、髭は綺麗に剃っていた。立派な髭が生えてこなかったからではなく、生来、明るく楽しい気質の持ち主で、威厳や重々しさをそなえていたり、いかめしく見えることが全く好みでなかったからである」 「ホッブズの眼は良く、薄茶色で、生き生きとして、活力に溢れ、死ぬまでそうだった。議論に熱中すると、(あたかも)瞳の中で火のついた石炭が輝くようだった。ホッブズには二つの顔がある。笑った時には、機知に富み、陽気なユーモアをたたえ、細まった眼がほとんど隠れてしまうほどだった。大きくも無く、小さくも無い中ぐらいの眼であった」。もちろん、ホッブズが人間嫌いの孤高の哲学者のように見なされることも多いが、必ずしもそうとばかりはいえないようだ。オーブリの記述には、破顔一笑、機知とユーモアをくりだす陽気で快活な哲学者の姿が目に見えるように迫ってくる。 2、ホッブズの生涯 トマス・ホッブズはイギリス政治哲学者であり、理性主義伝統の創始者であり、近代において初めて自然法基礎の上で国家契約論を系統的に発展させた啓蒙的思想家でもあった。1651年に書かれた彼の代表作『リヴァイアサン』によって、近代西洋政治哲学の発展の礎が築かれたのである。 内乱と革命の荒波に揉まれた危機の時代において、ホッブズは、哲学、法学、政治学、宗教論、自然哲学からギリシア古典の翻訳まで、そのありあまる才能のすべてを開花させ、敵対者の目にどのように映ろうと、自らの生きた時代の要請する課題に真摯に答えようと奮闘した。特に、彼の人間がすべての行為の動機がエゴイズム、自己中心からなるという仮説は哲学と人類学を研究する重要な理論の一つとなると言えよう。 トマス・ホッブズ(1588~1679年)はイングランドのウィルトシャー州マームズベリー近郊に生まれた早産児であった。四歳の頃から読み書きの教育を受け始め、十三歳の時にエウリピデスの『メディア』をギリシア語からラテン語に翻訳するほどで、大学に入ったのは、十五歳の若さであった。しかし、当時の大学では、スコラ哲学が流行って、そこで教えられていたアリストテレスの論理学や自然学に、ホッブズは不満を持ち、天文学や地理学に時間を費やしたが、ともかくも優秀な成績で学士を取得する。丁度二十歳のホッブズは聖職者となる道は選ばず、名門貴族ウィリアム・キャヴェンディッシュ(ハードウィック男爵、のちの初代デヴォンシャー伯爵)の長男の家庭教師として雇用される。息子の名もウィリアムという。知的にも優れた人物であったようである。ホッブズとしては、デヴォンシャー家と一生にわたる付き合ったことは、彼の思想発展にとって、極めて重要な意味を持っている。 デヴォンシャー家を通じて、ホッブズは当時の代表的知識人や貴族、たとえば、F・ベーコンなどと知り合い、時には保護を受けるようになったのである。彼の伝記作家によるならば、ホッブズはあまり本を読まなかった。彼の書斎の中に半ダース以上の書物を見たことは無かった。たぶん、この逸話の意味するところは、ホッブズは昔の権威を盲信することなく、読書よりも、多くの時間を思索に費やしたことによって、あの独創的な思想が生み出されていったということであろう。 1610年にホッブズは、二十二歳の時、ウィリアムに随行して、大陸(フランス、イタリア、ドイツ)に旅をする機会を得る。貴族の子弟の教育の総仕上げとしての「グランド・ツアー」である。1620年から1625年までベーコンの下で働き、その著『随想集』のラテン語訳を手伝うという経験も積む。貧しい牧師の息子であったトマスは、その卓抜な言語能力と才覚を頼みに名門貴族の秘書として重用され、政治、外交、植民地会社の運営にまでわたる当時のエリート階層の実践の世界を見聞する機会を得たのである。こうした多忙な生活の中でも、ホッブズは古代ギリシア・ローマの作品への関心を強く持ち続ける。1620年代には、トッキュディデスの『歴史』を原典のギリシア語から英訳するという試みに従事し、1628年には脱稿した『ペロポネソス戦争史』。 この間に、ホッブズは、明らかに伝統的な貴族道徳から近代的な市民道徳への過度的な転換を示している。この翻訳した『ペロポネソス戦争史』の序文では、ホッブズは、歴史を学ぶ目的を次のように述べている。 「というのは、歴史の持つ重要なそして固有の任務は、過去の行動についての知識によって、人々が、現在においては思慮を持って、また将来に対しては先見の明を持って振舞うことを教え、且つ其れを可能ならしめることにあるのであるが、この著者のこの書物以上にこれを十分になしうるものは何も存在しないからである」と。 このようにして、思弁のスコラ哲学に背を向けたホッブズは、まずさしあたっては古典古代の人文書や歴史書の中に指針を見出し、そこから行動の規範を探り出そうとしていたと言えよう。 しかしながら、脱稿の三ヵ月後、その二年前に亡くなった父の後を継いだばかりの第二代デヴォンシャー伯が三十八歳の若さでなくなるという悲劇に見舞われる。ウィリアム死後、一時的にキャヴェンディッシュ家を離れたホッブズは、クリンフトン卿の息子の家庭教師となり、この息子のグランド・ツアー(1629~1630年)に随行し、再び大陸に渡る。 この旅行の最中に、一つ有名な出来事が起きる。ホッブズは、「ある紳士の書斎」において、いわゆる「幾何学の発見」が行われ、その魅力の虜になるのである。ここでホッブズがとりこになった幾何学の魅力とは、まず定義を決め、ついで公準と公理を定め、そこから整然たる論理によって結論を引き出していく、その推論の確実さであったと言える。このような幾何学的推論こそ、のちのホッブズ哲学の一つの基礎となっていく。『リヴァイアサン』におけるホッブズ自身の表現をそのまま用いるならば、幾何学こそ、「神がこれまで人類に与えた唯一の学問」であった。この頃から、ルネサンス人文主義的教養の圏内にあったホッブズが、その学問的関心と方法論を大きく転回させ、光学を中心とする自然科学の研究に猛然と取り組むようになったことは事実である。 この先述べたように、1620~1625年にホッブズはベーコンに秘書として使え、散歩のお伴をしながら、その口述筆記を行っている。だが、ボッブズはこのイギリス経験論の創始者ベーコンに対して必ずしも高い評価を寄せていない。むしろベーコンは哲学者よりも自然誌家にすぎないとすら言っている。 確かに幾何学をモデルとして演繹的推論を旨とするホッブズ哲学の立場からするとならば、ベーコンの帰納法は単なる自然的事実の記述に過ぎないように映るかもしれない。しかし形而上学的思弁を排し、経験の世界に眼を向けながら、それを平明な言葉によって表現していこうとしたベーコン、そして身分や家柄よりも能力を重視しながら、「知は力なり」と宣言したベーコンとの接触が、ホッブズにおけるスコラ的伝統の克服における一つの重要なチャンスをなしていると言えよう。 ところで、幾何学に関して、さらに今一つ重要なことは、このような方法の転換が、人間観そのものより一層の現実主義化ないしは近代化を推し進めていったということである。この点について、有名なホッブズ研究者でもあるF・テニエスによって発見され、『第一原理についての小論』と名づけられた手稿である。 それは1630年ころのものと推定した。小論は幾何学的推論の具体的な適用であり、三部よりなる全体はすべて「原理」と「帰結」よりなっている。すべての部分は「原理」と「帰結」を前提としながら、全くの演繹論理によって引き出されているのである。その内容たるや、自然のすべての現象を説明するための運動についての第一原理(第一部)、ある物体の運動の他の隔たった物体への伝達の仕方(第二部)、これらの諸原理を用いての感覚その他の人間の能力の説明(第三部)よりなっている。 しかし、1630年代にいたるや、以上のような幾何学に加え、ガリレオを中心とする近代自然科学者への接近と、その成果の吸収が積極的に行われていく。ホッブズにとって、ガリレオは、「普遍的な自然科学への門戸を開いた最初の人」であった。ホッブズが直接にガリレオに会う機会を持ったのは、1634年に出発した第三回目の大陸旅行においてであった。 こんなわけで、1637年に帰国した時には、すでにその哲学の基本的な構想は出来上がっていたものと思われる。それは、物体とその「運動」の概念を中心とするものであり、それによって物体のさまざまの運動に始まり、人間精神の運動からさらに政府の活動までも同一の原理によって説明されうるとするものである。ここにいわゆる物体body、人間man、市民citizenをそれぞれの対象とするいわゆる「物体論」、「人間論」、「市民論」という三部作の構想もまとまっていたのである。 第三回目の大陸旅行では、ホッブズは、終生の親友となった物理学者、哲学者であるガッサンディ(1592~1655年)と出会い、それと同時に大哲学者であるデカルト(1596~1650年)と文通を始めることになる。当時、ガッサンディとホッブズは、デカルト哲学に批判的であったが、ホッブズは晩年になると、デカルトの人と思想を賞賛するようになった。 3、ホッブズの思想 ホッブズの思想と言うならば、人工的な国家理論の一言に尽きる。『リヴァイアサン』は彼の代表作であり、十七世紀ヨーロッパにおける国家理論の白眉である。この著作によって、同時代の王党派からは無神論者であるとされ、共和派からは専制政治擁護者と見られた。現代に至るまでホッブズの評価は屈折しており、相反する立場から全く異なったホッブズ観が提示されている。 この著作において、ホッブズは人間の自然状態を闘争状態にあると規定する。彼はまず生物一般の生命活動の根元を自己保存の本能とする。その上で人間固有のものとして将来を予見する理性を措定する。理性はその予見的な性格から、現在の自己保存を未来の自己保存の予見から導く。 これは現在にある食料などの資源に対する無限の欲望という形になる。なぜなら、人間以外の動物は自己保存の予見ができないから、生命の危険が脅かされた時だけ自己保存を考える。ところが、人間は未来の自己保存について予見できるから、常に自己保存のために、他者より優位に立とうとする。この優位は相対的なものであるから、際限が無く、これを求めることは、すなわち無限の欲望である。 しかし、自然世界の資源は有限であるため、無限の欲望は満たされることが無い。人はそれを理性により予見しているから、限られた資源を未来の自己保存のために、常に争うことになる。また、この争いに実力での決着はつかない。なぜならば、ホッブズにおいては、個人の実力差は他人を服従させることができるほど決定的ではないからである。これが、ホッブズのいわゆる「万人は万人に対して狼」、「万人の万人に対する闘争」である。 ホッブズにおいて、自己保存のために暴力を用いるなど積極的手段に出ることは、自然権として善悪以前に肯定される。ところで、自己保存の本能が忌避するのは死、とりわけ、他人の暴力による死である。この他人の暴力は、他人の自然権に由来するものであるから、ここに自然権の矛盾が明らかになる。 そのため、理性の予見は、各自の自然権を制限せよという自然法を導く。自然法に従って人々は、各自の自然権を唯一人の主権者に委ねることを契約する。だが、この契約は自己保存の放棄でもその手段としての暴力の放棄でも無い。自然権を委ねることは、自然権の判断、すなわち、理性を委ねることである。 ホッブズにおいては、主権は第一義的に国家理性なのである。また、以上のことから明らかなように、自然状態では自然法は貫徹されていないと考えられている。 ホッブズが展開した国家理論は自然状態を想定し、そこから人工的に国家モデルを作り上げたという点で、近代国家理論の先駆けであった。このように自然状態を措定し、現実の国家社会と間に契約という飛躍を設定する理論は「社会契約論」と呼ばれている。このような社会契約の要因として人間の自然理性を重視していることから、啓蒙主義的な国家理論であるということができる。 ホッブズの理論を批判的に継承したのは、ロックとルソーであるが、両者とホッブズの決定的な違いは、ホッブズが自然状態において自然法が不完全であるとするのに対し、両者は自然状態においてすでに自然法が貫徹されていると想定していることである。 このホッブズの政治理論の性格、及び歴史的意義については、現在四つの主要な解釈がある。 絶対主義の政治理論説、以下の三点を主要な根拠としてホッブズの政治理論が絶対主義王政を支持するものである説。つまり、ホッブズが社会契約を服従契約を見なしていること。主権者が一者であり、主権が国家理性であること。主権者が国内の宗教を含めて、あらゆる国内的、国際的政策を統制できるとしていること。 近代的政治理論説、以下の二点を主要な根拠として、ホッブズの政治理論が近代的で民主主義的な国家理論であること説。無神論的、唯物論的世界観、また、理性主義に基づく平等思想を唱えていること。分析的に導き出したアトム的人間から構成的に人工の国家を導き出すという科学的手法を取っていること。 伝統的政治理論説、以下の二点を根拠として、ホッブズの政治理論が伝統的なキリスト教倫理思想に乗っ取っているとする説。ホッブズの自然法思想がデカルト思想に影響される前からすでに形成されていたこと。ホッブズの宗教に対する言及が、無神論的立場ではなく信仰によっていると考えること。 自然状態的政治理論説、以下の二点を根拠として、ホッブズの政治理論が究極的に自然状態の理論であり、闘争の政治理論であるとする説。自然法が個人規模での闘争を止揚して国家規模の闘争を導いているに過ぎず、本質的に闘争状態であることが変わっていないこと。国家状態が自然法に基づくとされていること。 4、ホッブズの著作 『市民論』(1642年)、『物体論』(1655年)、『人間論』(1658年)は、ホッブズのいわゆる三部作を構成する。それらが自然論、人間論、政治論というボッブズの政治哲学に対応していると思われる。 『法学原理』(1650年)は、人間論と政治論を含むものである。そのほか『ビヒモス』(1668年)が、1640年から1660年までのイギリスの内戦を描き、『イングランドにおける哲学者と慣習法の学徒との対話』が慣習法の効力を批判した。 ホッブズの代表作『リヴァイアサン』は、四つの部分から成っている。 第一部が「人間について」で、認識や情念などという人間の諸能力を論じ、「万人に対する万人の戦争」として有名な自然状態を描き出し、自然法の問題まで展開する。 第二部が「コモンウェルスについて」で、かかる自然状態からの契約による国家の生成、その諸形態から主権者と臣民の権利と義務、国家の解体の原因などを論じる。 第三部が「キリスト教のコモンウェルスについて」で、予言による神の国における平和のための諸条件を描き出す。 第四部が「暗黒の王国について」で、それまでに論じてきた諸原理とは異なり、それと対立する諸教義への論難が行われるのである。 5、ホッブズの哲学 ホッブズの哲学体系と言うならば、『哲学原理』のうち、その第一部は、『物体論』であり、第二部は、『人間論』であり、第三部は、法と政治を論じる『法学原理』である。そこにおける議論をより緻密に構成し直したものが、『市民論』として世に問われることになる。そのあとでホッブズは、改めて『リヴァイアサン』を執筆・刊行する。 ホッブズは、哲学を定義して次のように言っている。 「哲学とは、われわれがまず持っているその原因または発生についての知識から、正しい推論によって得られる、結果または現象についての知識であり、さらにまた、まずその結果を知っていることから得られる原因または発生についての知識である」。 このようにして、いわば一言で言って、哲学とは「因果関係についての知識」である。つまりそれは、すでに原因もしくは発生が知られている場合には結果ないし現象を、逆に結果もしくは現象が知られている場合には原因ないし発生を推論していく人間の知的営為である。このようにして、ホッブズにとって哲学は完全に科学と同一視される。 そしてこの場合における推論とは、計算にほかならず、従ってホッブズが「理性」によって意味するのもかかる計算能力以外のものではない。 このようにして哲学が「因果関係についての知識」であるとしたならば、哲学の目的もまたこれによっておのずから決定されていると言えよう。いわば哲学の目的は、因果関係についての知識を正しく利用し、望ましい結果を生み出しながら、それを人間の便益に供せしめるということにある。ホッブズにとっての哲学の目的は、「力のための科学」という近代科学の目的に一致していると言える。 ところで、ホッブズは、ガリレオやパドゥア学派の人々に従いながら、かかる哲学の方法に二つのものを区別する。すなわち、「分析的方法」と「総合的方法」である。 分析的方法とは、全体をその諸部分に分解しながら、かかる部分のさまざまの性質を生み出している原因を明らかにしていく方法であり、これに対して総合的方法とは、このように得られた諸部分をふたたび全体に再構成し、これによって全体の運動を明らかにしていく方法である。 このような分析・総合の方法は、個別科学の領域や個別的事象の因果関係の解明にも用いられる。 ホッブズによれば、運動の唯一の原因は隣接せる他の物体の運動にのみ求められる。このようにしてアリストテレス以来の物体の運動の原因が、物体それ自体にあることが否定されていくのである。アリストテレスによれば、自然のすべての存在はそれ自身のうちに目的を含み、その目的の実現過程にあるのであり、かかる過程の表現こそ運動にほかならない。しかしここでホッブズは、アリストテレス的な自然に内在する目的の観念を完全に否定し、運動の唯一の原因を隣接せる他の物体の運動に求めているのである。 かつてデンマークの哲学者F・ブラントは、その著『ボッブズの機械論的自然観』において、ホッブズはかかる機械論的自然観の成立において、デカルトを初めとする当時のほかの如何なる哲学者よりも先んじていたことを明らかにしていった。この点について、ホッブズの機械論はもっとも徹底しており、たとえば、物心の二元論を認め、それによって一方で機械論をとりながら他方で道徳そのものの中に人間社会の秩序原理を認めたデカルトと異なって、その機械論は基本的には人間論も政治論をも貫いていくのである。 もちろん、政治思想史的コンテクストからみるならば、ホッブズ政治哲学の意義は単にその科学化が成し遂げられていったということにあるのではない。むしろそれを通じて思考と価値観の近代的転換が成し遂げられていったということにあるのであり、それがさらに近代市民社会の成立と密接な関わり合いを持っているということにあるのである。以下『リヴァイアサン』の内容のまとめを通じてこのことも明らかにしていくであろう。(7682字数) 第二章、『リヴァイアサン』とは何か(11㌻~40㌻) 1、人間性について(第一部) 2、コモンウェルスについて(第二部) 3、キリスト教のコモンウェルスについて(第三部) 4、暗黒の王国について(第四部) 第三章、結論(41㌻~50㌻) 1、評価と批評 2、総括と結論 3、ホッブズとその後 4、ホッブズとロック、ルソー、ヘーゲル、マルクス、及び現代 5、ホッブズの晩年 参考文献 年譜 索引 2009/7/26 意犹未尽到24日为止,春季学期结束了。合计受教于二十名教授,十二门课程,听课超过350小时以上,取得32学分(单位);完成各种小论文20余篇,将近10万字数,读书超过百册;获得大学院特别奖学金×××万日元,9月30日举行颁发仪式。
时隔二十六年之后,重新背起书包上学,究竟感受如何,恐怕一言难尽。值得肯定的是,终于坚持过来!日日睡眠三小时,天天乘车坐过站;个中滋味,难与人说。
从7月25日到9月28日,漫长闷热暑假来临。伴随着新鲜感,飘过一丝不安:古典希腊语需要返工,指导教授布置写50页至100页研究论文。因此,自然要读书,读多多的书;做喜欢的事,是一种幸福。
从某种角度而言,生命意义,恰恰在于:
我的人生我做主; 2009/6/20 雾色迷思到周末了。感觉很好。病了一场,输液一周,休学两周,调整节奏。
利用休息,认真研读《人的本性与命运》。作者是德裔美国人,莱茵霍尔德・尼布尔,1892-1971。基督教现实主义神学家。围绕两方面展开,一是人性基本构成,二是关于人的“罪性”。
人作为受造物,有两个方面:肉体与精神。肉体,受自然必然性支配;精神,是指人具有自由,能超越世界和自我。人既非纯粹的自然,也非纯粹的精神,而是处于自然与精神交汇处,周旋于自由与必然之间。
此书主旨“人性”与“历史意义”;着眼“人的罪性”。罪的界定主要有宗教与道德两方面,前者的罪,是对上帝的背叛,后者的罪,是对他人的不义。罪的基本形式是“骄傲”和“情欲”。
人生一旦有焦虑,产生骄傲与情欲。通过自爱否定其生存偶然性;依靠沉沦逃避其精神的自由。诸如“权力的骄傲”“知识的骄傲”“精神的骄傲”等。
个性,是根据自我所具有的自我超越能力而得到表达的,而不是根据自我具有的理性能力而得到表达的。本性即命运。人有什么本性,就有什么命运。人是自然与自由,肉体与精神的统一体。
历史之所以有意义,在于它能够实现生命的根本意义;历史无论有多丰富的意义,却不能赋予人生以充分意义。因为人生的意义,既包含历史的意义,又超越历史的意义。 2009/6/4 人物分析「ニーバーとベトナム戦争」
ラインホールド・ニーバー(1892~1971年)は、二十世紀の偉大なアメリカ人の一人である。初めて彼の名前を知ったのは、2009年に、高橋教授の「ニーバーとその時代」という講義を受ける時だった。 ラインホールド・ニーバーは、優れたキリスト教の神学者であり、伝道者である同時に、社会倫理の戦士と社会主義の活動家というイメージが強いと思われる。波瀾万丈の人生には、激しい社会変動に見舞われ、第一次世界大戦、大恐慌、ニューディール、孤立主義、第二次世界大戦、トールマン主義、朝鮮戦争、ベトナム戦争、長い冷戦時代を体験してきた一人でもあった。 「ニーバーの無数の活動に一貫して流れている統一力は、生の悲劇さと歴史のアイロニーと人間の衰弱さに対する特に鋭敏な感覚であった同時に、そこには、複雑で扱いにくい様々な現実にも怯むことの無い、神の求める正義に確固として基礎付けられた義務への際立って強い確信があった。」M・シュレジンジャー・ジュニアは、このようにニーバーを評価したのである。 ニーバーの生涯と思想に関して、沢山の文献と資料があるが、この短いレポートでは、ニーバーのベトナム戦争に対する見方、態度、或いは立場について、二十一世紀の視点から、考察しておきたい。
ベトナム戦争の背景と経緯 ベトナム戦争は、第一次インドシナ戦争の延長にある戦争のため、第二次インドシナ戦争とも言われる。宣戦布告なき戦争であるため、ベトナム紛争とも呼ばれる。 形式的には南北ベトナム間の戦争だが、実質的にはソ連と中国に代表される共産主義陣営とアメリカに代表される資本主義陣営の対立(冷戦)を背景とした「代理戦争」の様相を呈した。また、「ベトナムの南北統一運動に対する抑圧的戦争であった」という指摘もあるが、この時期の統一運動は、マルクス主義の被民族抑圧解放路線と密接な関連を持っていたため、二つの要素を明確に区分することは難しいという意見もある。 ベトナム戦争当時、日本などのマスコミは、ベトナム戦争では、南ベトナム在地勢力である南ベトナム解放民族戦線が中心となって、南ベトナム政府とアメリカなどと戦っているかのように報じたのである。さらに日本の数多くのベトナム戦争の書籍では、ベトナム戦争を「アメリカがトンキン湾事件をでっち上げて北爆を起こしたことがきっかけ」と書かれている場合が多く、日本の反米「反戦」団体が、この戦争をアメリカによる侵略戦争と定義することもあり、誤解を招くことも多いが、ジョン・F・ケネディは、1960年初頭でベトナム戦争を戦うのはベトナム人であるべきだという発言をしており、つまり、当初はベトナム人だけでやっていた戦争であり、実際は米軍の介入は1965年に南ベトナムと米軍基地を襲った事に対する北ベトナムへの反撃であるという。アイゼンハワー政権下のアメリカは「ドミノ理論」を根拠に、反共産主義的な姿勢を堅持した南ベトナム政権をフランスに代わり軍事、経済両面で支え続け、本格的な支援を開始したのである。 1960年1月にアイゼンハワーを継いでアメリカの大統領に就任したジョン・F・ケネディは、就任直後に、東南アジアにおける「ドミノ理論」の最前線にあったベトナムに関する特別委員会を設置した。その委員会は、南ベトナムへのアメリカ正規軍による援助を提言したのである。 1964年にジョン・F・ケネディが暗殺され、直後にケネディ政権の副大統領であったジョンソンが大統領に就任した。彼は大権を行使し、1965年に海兵隊を南ベトナムに上陸させた、そして大規模な空軍基地を建設した。 しかし、戦争当事国のアメリカでは、反戦運動が高揚した。また、1963年に奴隷解放百周年を迎え、マーティン・ルーサー・キング・ジュニア牧師を中心にした黒人による人種差別撤廃闘争、いわゆる公民権運動が活発化していたこともあり、これらの公民権運動が転じて反戦運動に同化するケースも多く見られた(なお公民権法は、人種差別を嫌い公民権法の制定に精力的であったジョンソン政権時代の1964年7月に制定された)。 そのような中で、大学自治を求める白人の学生運動が公民権運動と結びつき、アメリカの若者を既存体制や文化から反発させる風潮が次々に作られた。ベトナム反戦運動はこれらの若者の心を捉え、ヒッピーやフラワーピーフルなどと共にブームとして一層盛り上がることとなる。 なお、ベトナム戦争の副産物として、ベトナムで共に戦った黒人と白人の若者がそれまで完全に分け隔てられていた人種間の融和の促進剤となった。この点について、キング牧師は生前「皮肉な結果である」と述べていた。 結局、アメリカは、自らの利益また共産主義を防衛のために遠いベトナムの地に軍事介入したこの戦争で、戦死者58000以上(派兵全体の約10%)と1700機の航空機、その他にも大量な兵器の損失を出し、その結果必要となった膨大な戦費負担は、同時期に巻き起こったオイルショックなどと合わせてアメリカ経済を直撃した。 ニーバーのベトナム戦争に対する見方と推移 「ニーバーは、1892年にアメリカのミズーリ州のドイツ語を話す家庭で生まれた。父親はドイツ福音教会の牧師であった。ニーバーは、その教会の神学校を経て、イェール大学神学大学院に進んだ。彼が従事した最初で唯一の牧会の場所は、1920年代、急速に発展する産業の最先端地デトロイトであった。1928年、東部のニューヨーク市のユニオン神学大学に移り、そこで三分の一世紀にわたって教え、そこで教えると共にいたる所で教えた。というのは、1952年脳梗塞によってペースを落とさざるを得なくなるまで、つむじ風のようなエネルギーを発揮し、国内はもとより世界各地で、説教や公演や政治演説をこなし、神学や歴史や文化また外交や内政に関する書物や論文を大量に書き著したからである、1971年、この世を去った」、とM・シュレジンジャー・ジュニアは、ニーバーの生涯を短い言葉でまとめたのである。 ところで、1965年と言えば、ベトナムにおける共産主義者と非共産主義者の間で長い間戦われてきた内戦にアメリカが関与する運命的な転換点となった。その結果、ケネディ時代とジョンソン時代初期の希望に溢れた国家的な一致は、諸大学のキャンバスにおける徴兵年齢にあたる若者たちの論争と苦い失望と巨大な反乱へと変わった。ニーバーは、東南アジアのその国へのアメリカの軍事介入に、1950年代繰り返し警告を発していた。ベトナムは、1954年以来、共産主義者に支配されている北部とアメリカが支援する南部とに分断されていた。1962年に、ニーバーは次のように書いた。 「政治的状況は、確かに非常に深刻である。従って、この国の防衛にわれわれの威信を無制限につぎ込むことが誤りでないかどうかを問う必要がある。南ベトナムのゴ・ジン・ジェム大統領は、初期の頃、南半分の国家の経済を強化し、北からの難民を定住させることにある程度に成功した。しかし、彼の政権は急速に堕落し抑圧的になっている」。 ジョンソン大統領が、サイゴン体制の変わらぬ不安定さとアメリカ人への攻撃に応じて、北ベトナムの軍事施設を爆撃する命令を下すことによってアメリカの参入を拡大し始めたのは、1965年2月のことであった。ニーバーは次のように書いた。 「報復的な空爆は確かにわれわれの決意を示すものであったかもしれない。しかし、軍事的に言えば、空爆は、われわれが制空権を握っていること、その点で少なくとも地上で増大する共産主義勢力の優位に対して均衡を取る程度のことを示す意味しかない。簡単に言えば、われわれは明らかに、どちらも勝つことができない戦争の泥沼に入り込んでしまったようだ」。 ジョンソンがベトナムにおけるアメリカの役割を軍隊の拡大と空爆の増大だけでなく軍隊の増強を伴う終わりなき軍事参入へと変貌させた時、ニーバーは、厳しく批判した。なぜかというと、ジョンソン以前の大統領たちもベトナムにおける非共産主義者勢力を支援したが、ごく限定された規模においてであった。1965年秋に、ニーバーが次のように書いたのである。 「ベトナムにおける意味のはっきりしないわれわれの冒険は、現在の政権が企図したことではなかった。しかし、海兵隊の上陸や北ベトナムへの爆撃、それに伴う高率の徴兵による軍の増強は、明白にジョンソンの政策である。ジャーナリストや学者や上院議員は、宣戦布告なきアジアにおけるわれわれの戦争に疑問を抱いてきた。しかし、ジョンソンの威信は、彼らの激しい抗議を黙らせるか無視してきた」。 1966年初め、ニーバーは、あるインタビューに答えて次のように述べていた。 「われわれが強引に軍事行動を続けるなら、南ベトナムをアメリカの植民地にする以外に道はない。しかしながら、われわれの軍事基地を、別な場所、タイもしくはフィリピンへ移すという選択もあろう。そのようにするなら、われわれは、少なくとも他の国々、すなわち、軍事行動によってその国の自決権を防衛する、その国にとっては物理的破壊を意味するというわれわれのもっともらしい主張に惑わされていない国々からも精神的支持を得られることは確かであろう」。 1967年は、国内を二分する論争が行われた年であった。ベトナムに送られたアメリカ軍の兵士の数は50万人に達し、爆撃は強化・拡大され、北の軍事施設だけではなく経済施設にまで向けられた。ニーバーは、そのような巨大な軍事行動の理由を次のように探った。 「そのような軍事行動に駆り立てているもっとも明白な原動力は、自らの帝国主義的国家の誇りと威信に対する無自覚の関心と、その国の政治的指導者たちが抱いている無言の同じ関心であるに違いない。それに、共産主義に対する今も消えない漠然とした恐怖が加わる。しかしその恐怖は、共産主義専制体制が崩壊しつつある最近の動きを無視するものだ」。 「権力の傲慢と徳の傲慢の組み合わせは非常に危険である。ジョンソン政権による政策の大半の誤りは、権力と徳のこの結合を無批判に受け入れたところから来ている。最近の政策では二つの例がまさに東南アジアとドミニカ共和国である」。 結束語 ベトナム戦争に対するニーバーの態度は、以上のように、いろいろなところ、1950年代から1960年代半ばを通し、ずっと言い続けているようだが、到底、政策論であり、策略論であり、神学者の立場から言うわけではないと思われる。キリスト教信仰ないしはイエスの教えの真髄は許しである、という意味合いは、数多くの発言を調べてみても、全然見当たらない。ニーバーは、戦争反対という立場を取ってはいるが、原理原則を踏まえて、という感じでさえなさそうにみえる。 アメリカ人には、一般法則を編み出すことを好む傾向があり、世界で何が起こるかを説明するために、彼らはある偉大な大義を求めるようになる。その大義は、人類すべてに同じように働きかけ、彼らがみな、自発的に、一つの同じ道を歩むよう導くとされているのである。 これは、まさにアメリカの世界認識や外交観に顕著に現れている特徴であると思う。それは、国民の利益を国の利益に直接結びつけ、対外政策と国内政策との目標を一致させることを意味するし、他国にも要求するのである。元々、不干渉主義というモンロー教書の意味は、アメリカ史上、不滅のものとして、位置づけられることになった。それは単に、19世紀から20世紀の初頭にかけて、アメリカ外交の聖典としてよみがえり、形を変えながら今日まで影響力を持ってきたばかりではなく、むしろ、その重要性は、アメリカの外交の原型が示されていることにあろう。アメリカが、植民地政策においても、「自由、平等、人民主権」といった価値を掲げ続けたことである。アメリカの目的は、被支配者たちが秩序ある社会を形成し、自立してやっていけるよう助けることなのだ。もしかすると、ベトナム戦争に対して、「建国の父」の教えを忘れたかもしれない。 アメリカのキリスト教会のベトナム戦争反対が1965までに遅れたのは、ニーバーのキリスト教的現実主義のゆえであるとも言えよう。晩年にニーバーは「正義の戦争」について次のように言ったという。 「正義の戦争の第一の基準は、そこに成功への良い見通しがなくてはならないということです。非常に皮肉なことですが、ベトナム戦争はこの基準に合致しませんでした。第二は、手段は目的に釣り合ったものでなければならない、ということです。ベトナムでは、流された血においても使われた金銭においても、手段は目的に釣り合っていませんでした」。ニーバー自身、ベトナム戦争にアイロニーを感じていたことは、ここでも明らかであるが、自分自身のアイロニーについても感じていたのではないだろうか。 2009/5/30 胎死腹中 关注美国总统们,说起来由来已久。1972年2月28日,中国与美国发表《中美联合公报》,不料尼克松因水门事件下台,导致中美建交推迟六年。然而,由此兴起研究美国热潮方兴未艾,一浪高过一浪。当时,尼克松《六次危机》流畅的文笔,丰富的内容,坚强的性格,吸引了不到二十岁的我;遥遥关注美国总统们,形成经久不衰的兴趣。
随着进入欧美文化研究科学习,特别恰逢奥巴马当选,他的言行举止,举手投足,吸引了世界眼球,激发起表达愿望,撰写一本有关美国总统著作,最好涵盖四十四位总统;从主要信息,到奇闻轶事;解决部分研究者需要,满足普通人猎艳好奇。
研究美国,必须研究现代史,革命史,宗教史。历史,就是人物。通过研究美国四十四位总统,提纲挈领,理解美国。计划分为四十四个章节,按照标题进行分类:
1、姓名,2、外貌特征,3、性格特征,4、祖先,5、父亲,6、母亲,7、兄弟姐妹,8、旁系亲属,9、子女,10、后代,11、出生,12、童年,13、教育,14、宗教,15、爱好,16、早期罗曼史,17、婚姻,18、婚外情,19、婚姻结束后恋爱史,20、兵役,21、任总统前职业职衔,22、政党候选人提名,23、竞选对手,24、竞选议题,25、总统大选普选票,26、选举人票,27、就职演说,28、副总统,29、内阁与施政计划,30、最高法院任命,31、退休生活,32、死亡,33、对总统颂扬,34、对总统批评,35、总统语录,36、研究总统书籍,等等。
譬如在“布什”一栏中,可以知道布什父子总统来龙去脉;在克林顿章节,可以了解困扰他的无数丑闻;在奥巴马栏目,可以窥视他的人生足迹,等等。
理解宗教与自由,是理解美国钥匙。在“宗教”分类中,可以找到四十四位总统,宗教信仰根据。譬如西奥多・罗斯福信仰荷兰归正教会,在任职总统期间,试图把“我们信仰上帝”词语,从美国硬币上拿掉,但没有成功,等等。
这是一项艰苦工作。然而,既然有幸进入大学院学习,那么,为了研究美国文化学付出努力,增砖添瓦,成就夙愿,化为梦想。 2009/5/24 文化风情 新学期开始,度过第六周。一周十二门课,二十九个学时,某种意义而言,仿佛洗涤灵魂,使人脱胎换骨;精神的成长,救赎的真谛,孕育在苦中有乐自我约束中。
能够受教于众多学养深厚教授,受益于选课方式,是人生难得机遇。譬如:
古屋教授是美国普林斯顿大学博士,授课“普林斯顿式”:学生讲课,老师质疑;内容美国宗教文化史;
有贺教授是美国斯坦福大学博士,授课“斯坦福式”:一堂课三个小时,三本原著各自进展两至三章,同时补充讲义;内容美国现代史,政治史,外交史;
高桥教授是日本国产,授课“日本式”:一板一眼,细腻严密,作业量大;内容美国社会,历史神学,人物研究;
金子教授是哲学家,授课“德国式”:进度精确,旁征博引,不容置喙;内容德国哲学,身心论,人间学;
田中教授是英国背景,研究霍布斯,洛克;学养造诣高深,精于比较思想。幽默风趣,博古通今,学贯中西。
已经着手翻译「国家与个人」,讲述17世纪英国市民革命,到20世纪80年代末期,民主思想发展轨迹;是田中教授在NHK电视教材,具有普及性质。
其它课程:①英文精读②同声传译③建筑文化④宪法研究⑤论文指导⑥文化导论⑦古希腊语等等,简单视为教养,投入精力有限。
值得期待的是,如果第一学期,没有在学业与工作双重压力倒下,那末未来旅途,即使依然漫长,基本目标设定:获得博士学位。 2009/5/17 建筑意匠 在自己选修课程里面,有一门“建筑与文化”:讲述窗户,门,光线,柱子,墙壁,地板,屋顶与文化的关系,令人耳目一新。
“建築は、もっとも頭脳的な芸術であり、同時に、もっとも感覚的な芸術である。すべての芸術の中で、人間の一切の能力をもっとも完全に要求する芸術である。”また、“これはもっとも厳格に雰囲気の法則に従う芸術である。”彫刻家のオーギュスト・ロダンがこのように述べている。
香山先生の授業を聞いているうちに、段々、建築の面白さ、楽しさ、および大切さを、たとえば、建築を作り上げる要素として、「柱」、「壁」、「床」、「屋根」という四つのポイントは、いかなる重要なのか、少しでも、分かったような気がする。 例えば、柱によって中心を建てること、ささえるものはまた支えられる柱、軽々と支える柱、現代の柱、日本の柱など、多少とも知った。 つぎに、壁について、定義した。空間とは、囲うことによって生み出されるものであり、囲うはたらきをするもっとも基本的な要素は壁である。 それに、建築空間の底面を作る要素が床である。従って、床の面が、壁よりも屋根よりも柱よりも先に、人間の行動を規定することになる。床は天地に繋がり、また離れる 建築空間を上から包む屋根は、ほかの要素と違って、独自の強い働きを持つ。上に向く空間の軸は、人間にとって、特別の意味を持つからである。その下に包んでいる空間を遠くからもよく示す。 一つの屋根の下で暮らすという言い方がある。屋根が、よくまとまった共同体のわかり易い象徴であることを示しているし、人間を雨や雪から守るはたらきを持つもっとも大きな建築要素であるが、共に暮らす家族の存在、その家族を幸せに包む空間の存在を外に向かってもっとも強く示す存在でもある。 屋根は天の象徴であり、従って、天井や天蓋は、しばしば、天空あるいは天上の世界を示すものとしてデザインされる。仏教の寺院の天井や、バロックの教会堂のドーム天井はそうした例の代表的なものである。 香山教授の授業をまとめていうならば、少しでも視野を広め、教養を高め、識見を深めることができるようになったと言っても、いいじゃないかと思う。本当にいろいろな意味でプラスになると感動する。
追伸:末っ子、黙児の誕生日。2002年05年17日生まれなので、ちょうど七歳になった。もう五年以上会ったことは無く、心が痛い。本当に懐かしいね。黙児:誕生日、おめでとう。 2009/5/12 绝版男人 偶然间,瞥了一眼晚报,心跳骤然加速:小沢辞职!急切扫描一遍,似乎消息属实!日本民主党党首小沢一郎挂冠而去。
无论理由是什么,都已经不重要了。
日本自民党,执政六十年,在政权面临交替,不,准确说大选前夜,不惜出阴损烂招,将小沢逼入陷阱;小沢一郎宿命:政治悲剧人物。
如此富有思想信条、精于谋略的杰出政治家,就这样,被密室阴谋卑鄙伎俩生生逼迫与首相宝座“失之交臂”。
背景扫描:40年前1969年,年仅27岁小沢一郎,初次当选国会议员,一当选就被当时自民党干事长田中角荣揽入麾下,后来成了田中手下著名“七大金刚”之一;海部内阁时小沢一郎出任自民党干事长,他积极推进日本向波斯湾派遣自卫队并推动国会通过维和法案,开启了战后日本向海外派兵先河。1993年他出版《日本改造计划》,提出日本要成为正常国家,是自民党内著名强硬派。
不过,在小沢一郎政治生涯中,最值得人们关注的,还是他对自民党破坏力。
1993年,自民党内小沢集团因在党内斗争中失利而离党出走,与先前从党内分离出去日本新党和新党先驱包括社会党进行大联合,推出细川内阁,从而使自民党在战后首次失去多数席位沦为在野党,此举成为小沢一郎政治杰作。
细川辞职以后,小沢“策反”自民党实力派人物渡边美智雄不果,便又推出羽田内阁。之后小沢打算再次让海部出山,但由于自民党与社会党戏剧性联合,小沢开始在野党生涯。然而,搞垮自民党实现政权更迭的志向,从未泯灭。
先撮合新进党,后组建自由党。2003年,他的自由党与曾经同是自民党内田中派鸠山由纪夫率领的民主党合并;2006年,小沢继岡田克也和前原誠司之后成为民主党党首。经过温和鸽派岡田和强硬鹰派前原之后,小沢开始调整政治主张,显示出中间色彩。
他认为靖国神社不应供奉战争责任者;宪法第9条应该坚持;“对美燃料补充法案不是什么了不起的法案”;远东的安全“有第七舰队就足够了”,日本的国家安全,应该由日本负责,甚至在美国国务卿希拉里访日时,也显出不屑一顾。
小沢一郎故事,恐怕仍未结束。 |
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